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【三人閑談】
おいしい発酵

2017/12/01

こうじの始まり

井奥 日本人がその「菌」という存在に気づいたのは、いつくらいなのでしょうか。

小泉 微生物という意味では、17世紀にオランダのレーウェンフックが初めて顕微鏡をつくって、微細な生き物がいるのを見つけたのが最初ということになっていますが、日本には、それよりも400年も前に、微生物を売る商売があったんです。平安時代の話です。

それは何かというと、種こうじ屋さんです。もちろんまだ微生物という言葉自体はないですが、でも不思議なものだという意識はあったんですね。蒸した米を置いておくとカビが生える。それをこうじと言うんです。こうじの定義は穀物にカビが生えたもの。

井奥 かなり以前から気づいていたわけですね。

小泉 そもそも、奈良時代の『播磨国風土記』にこうじが出てくるんです。今の兵庫県の宍粟市に、伊和神社という神社がありますが、そこで編纂された『播磨国風土記』に、驚くべきことが書いてあります。

蒸したコメを神様に上げました。古くなって、それにカビが生えました。それをカビタチ(加比太知)と言います。カビタチが、カムタチ(加牟太知)になって、カムチ(加牟知)になり、カウジになり、そしてコウジになっているんです。

だから、もう奈良時代にこうじという存在はあったんですね。神棚に上げた餅には、カビしか来ない。コメを煮たら、水分が多いからカビは来ません。焼き米にも来ない。蒸したコメにだけカビが来るんです。それがこうじの始まりなんです。

コメを蒸して置いておけばカビが生えてこうじになりますが、その中から、いいこうじだけを選択したのが実は平安時代末期です。灰をふりかけておくと、雑菌は淘汰されこうじ菌だけが出てくる。これは、人類最初の純粋分離ではないかと思います。

それを絹のふるいにかける。ちょうど絹のふるいの目はこうじ菌の胞子が落ちるような大きさです。それを集めて、種こうじ屋さんは、酒屋さんや味噌屋さんに売り始めた。これが室町時代の初期です。

日本人は大昔にそんなことをよくやるものですね。その意味でも、日本はやっぱりコウジカビの国なんだなとつくづく思います。

外国人が作り出す醬油

小泉 フランス料理やイタリア料理の料理人は、発酵技術への関わりが日本の料理人とは違いますか。

生江 そうですね。日本人にとって、醬油は生まれたときからあるものとして認識していますが、外国人の彼らからすると、発酵の技術やプロセスはすごくユニークで新しいものなんですね。英語で言えばヒップで、クールで、という感じ。

小泉 なるほどね。

生江 あと、発酵技術を取り入れようとしている国は、いままでヨーロッパ料理の覇権の中心だったフランスやイタリア、あるいはスペインではなく、辺境の地、しかも発酵というか保存をきかせなければいけなかった地域が多いんです。

北欧のデンマーク、スウェーデン、ノルウェーでは、日本の発酵技術と、自分たちがもともと持っている保存技術をうまくシナジーさせています。もちろん原料は違っていて、彼らの土地では、基本的には大豆もお米も作れない。ですから、例えばグリンピースを乾燥させて、そこから味噌を作ったり、大麦からこうじを作って、そこから発酵させる原料を作ったりしています。

あと、たんぱく質は高いけれども脂質が低いものを取り上げて、オリジナルの醬油や味噌を作っています。おもしろいところだと、バッタ、イナゴを使った醬油ですね。大麦で立ち上げたこうじと、塩と水とバッタだけで醬油を作る。

小泉 おもしろいですね。


生江 普通の日本人は考えないような醬油です。


小泉 いまイナゴの醬油の話が出ましたが、実は平安時代の延喜式(法令集)に、京都の町の中に4つの醬屋(ひしおや)、つまり醬油屋があったと書いてあります。穀醬(こくひしお)、魚醬(うおびしお)、肉醬(ししびしお)、そして草醬(くさびしお)(野菜の醬油)の4つです。当時すでに、日本人は4種類の醬油を作っていた。これを見つけたとき、私は現代人より平安人のほうがグルメではないかと思いました。

肉醬というのは現代ではもうありませんが、平安時代はカモの肉で作りました。最後まで残ったのは伊豆諸島の1つの御蔵島に、オオミズナギドリで作った肉醬が、昭和27年ぐらいまであったと思います。

私どもはいま、沖縄の石垣市で、豚肉の醬油を作りはじめました。皆さん非常に興味を持ってくれて、ラーメンのスープに使うと、ものすごくおいしいんです。

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