【三人閑談】
おいしい発酵
2017/12/01
-
生江 史伸(なまえ しのぶ)
西麻布「レフェルヴェソンス」シェフ。1996年慶應義塾大学法学部政治学科卒業後、都内有名イタリア料理店、海外レストランでの修業を経て2010年に同店をオープン。
-
井奥 成彦(いおく しげひこ)
慶應義塾大学文学部教授、慶應義塾福澤研究センター所長。専門は近世─近代日本社会経済史。著書に『醬油醸造業と地域の工業化──髙梨兵左衛門家の研究』(共編著)など。
発酵技術との出会い
井奥 生江さんはフランス料理のシェフでいらっしゃいますが、発酵技術に大変関心を持っておられますね。
生江 私の師匠はミシェル・ブラスという人で、フランスの片田舎でレストランを経営しているのです。丘の上にポツンとあるレストランで、まわりに何もないへき地なのですが、ヨーロッパ中の人々がポルシェやフェラーリで乗り付けてくるんです。それを見て、何がそこまで人を魅了するのだろうと思いました。
師匠からはよく、「自分の立っている場所、自分が生まれ育った場所に対して誠意を持って、料理を作るなり生活をしなさい」と言われました。そして、「君たちは日本に生まれ育って、日本には料理をはじめさまざまな深い文化があるのにもかかわらず、なぜ国を抜け出してフランス料理を学びに来るのか」と厳しく問うのです。
僕は彼にすごく魅了されていたので、このことは僕の中でもずっと自問自答していることです。修業をして自分のお店を開いた後、もう1度その問いを自分の中で繰り直して、もう1回日本を学び直そう、いままで無視していたものを改めて勉強し直してみようと思ったんです。
井奥 そこで発酵食品との出会いがあったわけですね。
生江 ええ、どうしても発酵食品にたくさん接することになりました。海外の料理人や食のスペシャリストの方々から、日本の発酵食品についてたくさん質問されるのです。それに答えられない自分をすごく恥じました。それでまた勉強し直して、酒蔵や醬油蔵、味噌蔵から、お酢の蔵、そして「しょっつる」とか、「いしる」とかの産地にできる限り足を運びました。いまも、まさにいろいろと勉強させていただいているところです。
あと、発酵を通じた海外のシェフとの交流が、また僕の気持ちに火を付けています。彼らにはセオリーがないので、テクニカルなものだけピックアップして、自分たちでオリジナルな発酵の食品を作り始めてしまう。そこで日本にはいままでなかったものがたくさん生まれています。
小泉 なるほど、それはおもしろいね。
生江 日本の発酵技術はいま世界に広がり始めて、そして根づいて、世界のオリジナリティーになりつつあります。すごくおもしろいシーンが生まれているなと感じています。
「こうじ」による発酵
井奥 私は学生時代から江戸時代の経済の発展について勉強していたのです。その当時、江戸時代は停滞的な時代だと一般的に言われることが多かったんですが、私の学生時代ぐらいから、速水融先生や中井信彦先生などが、江戸時代にかなり日本の経済は発展したのだとおっしゃり始めました。
それから関東をフィールドにいろいろ調べていくと、やはり江戸時代の後期ぐらいには、関東でも相当、農業生産量が高まっていったことがわかった。そうすると、それまで年貢を納めて自分たちが食べるだけで精いっぱいだったのが、ゆとりができてきて、余剰の農業生産物を加工して何か作るようになる。その場合、関東は地質的にローム層で、これは大豆や小麦などの生産に非常に適しています。それで醬油醸造業が発展していくわけですね。
醬油というのは実に不思議な調味料だと思います。標準的には1年ぐらいかけて作る。それも毎日コツコツとかき混ぜたりして発酵作用を促進させる。世界の民族の中でも、日本人みたいに、調味料を1年もかけて毎日コツコツと作っていくというのは他にあまりないのではないでしょうか。
小泉 日本の場合、まさにそういうコツコツ作るという流儀が、江戸時代ぐらいから広まっていったように思います。
それと、日本は木の文化ですね。桶というものがあった。桶によって醬油や味噌、お酒を長く熟成させることが可能になったわけです。
その日本の発酵文化で中心になっているのは、こうじです。醬油こうじ菌とか、味噌こうじ菌とか、日本酒のこうじ菌とか。ところが、こうじ菌はすぐに発酵するのではなく、長く発酵しておいしさが出てくる。そこに乳酸菌とか酵母が来て、じっくりと発酵していく。そういうエイジングによって、非常に味が良くなるわけです。
カテゴリ | |
---|---|
三田評論のコーナー |
小泉 武夫(こいずみ たけお)