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【三人閑談】
銀座線物語

2017/05/01

  • 冨士 滋美(ふじ しげみ)

    浅草仲見世「評判堂」店主。一般社団法人浅草観光連盟会長。仲見世商店街振興組合理事長。1971年慶應義塾大学商学部卒業。

  • 泉 麻人(いずみ あさと)

    コラムニスト。1979年慶應義塾大学商学部卒業。鉄道やバスに造詣が深く、東京の歴史に も詳しい。著書に『地下鉄の友』『東京いい道、しぶい道』等。

  • 坂戸 宏太(さかと こうた)

    慶應義塾横浜初等部教諭。1999年慶應義塾大学環境情報学部卒業。2005年政策・メディア 研究科修士課程修了。鉄道研究会三田会幹事。

旧型車両の想い出

坂戸 今年は地下鉄銀座線が昭和2年に浅草─上野間で東京地下鉄により開業してからちょうど90年です。浅草の冨士さんの地下鉄の思い出はどういうものですか?

冨士 私は小学校から越境入学で、番町小学校、麴町中学校に通い、慶應は志木高からなんです。だから、全部通学が地下鉄(銀座線)なんですよ。確か小学1年生のときに初乗り7円くらいだったと思いますね。

 いつ頃のことですか。

冨士 昭和30年くらい。改札口で切符切りがチョッキンチョッキンやるようになったのが小学校の4、5年くらいですかね。浅草から銀座線に乗って、神田で中央線に乗って四ツ谷までという行き方だったんですけど、途中から丸ノ内線(昭和29年より開業)ができて赤坂見附で乗り換えるルートができたんです。

 僕は新宿区の落合の生まれですが、子供の頃の地下鉄は銀座線と丸ノ内線だけでしたね。銀座に出かけるときは、うちはだいたい新宿から丸ノ内線に乗っていた。

慶應高校に入って、日吉から銀座に出るときは、もう日比谷線がオリンピックのころにできていたので(昭和39年全通)、それを使っていた。銀座線というのは常に使う路線ではなかったんですが、赤坂見附でホームのすぐ向こう側にいる電車だったり、渋谷で外に出てくるところをよく眺めていました。

それと、僕は小・中学生くらいまで結構記念乗車券を集めていて、昭和43年、銀座線60両更新記念の記念乗車券も持っているんです(笑)。よく乗ったのは、僕の世代だとやっぱり2000形なんですよね。

坂戸 昭和43年ですと開業当時から活躍した1000形などの車両を60両くらい置き換えた頃ですね。

冨士 昔は、自動ドアの引き込むところがゴムではなくて、小学生が手を引き込まれて挟んじゃったっていうのがずいぶんありましたね。それで泣いている子がいて。

 初期の車両は、つり革がピーンとバネになっていて、上の柄のところまでプラスチック製で、スプリングでバーンといくんだよね。中学生ぐらいのときは面白がって遊んでいた(笑)。

坂戸 あのタイプは一長一短あり、後に更新する際に、汎用タイプに取り換えました。

 このつり革は何という名前なんですか。

坂戸 リコ式というんです。

冨士 その頃は、荷物棚は網でしたよね。

 そうそう。ちゃんとした本物の網棚だった。

あと、途中で点灯するおなじみの予備灯。2000形まで付いていました。いつ頃まで走っていたのでしたっけ。

坂戸 平成5年の7月までです。その後、01系に統一されました。

 ステンレスのオレンジ帯に。

坂戸 私は、普通部に入学した平成元年から高等学校を出るまで6年間、表参道から渋谷までの1駅だけを毎日乗っていました。ちょうどオレンジの在来形から01系に変わる過渡期にあたりますね。

父も祖父も大変鉄道好きでしたので、他界した祖父が遺していた古いものがありまして。現在の銀座線は、元は東京地下鉄道と東京高速鉄道という別々の会社の路線だったのですが、これは直通運転を始めた頃の案内ですね。

冨士 昭和14年頃ですか。

 こういうのは、やはりひところの「メトロニュース」みたいに、改札脇に置いてあったものなんですか。

坂戸 これは駅置きだったようです。よくも悪くもさすが銀座線、いまも昔も変わらないようなところが結構ありますね。

冨士 私は、ハガキの大きさくらいの一言メモといって何か書いてあるものが駅に置いてあったのを覚えています。毎週それを読むといろいろなことが分かるというものでした。

東京高速鉄道営業案内表紙(昭和14年)(提供 坂戸宏太氏)

浅草と銀座線

冨士 銀座線って、浅草から行くと末広町まではみんなプラットホームが向かい合わせなんですよね。あれはきっと簡単だから道路の真下を掘っていたんでしょうね。道路からそのまま降りると乗り口がある。神田に行くと初めて真ん中にホームがあるんです。

 いま思えば、すごく浅い地下ですもんね。

冨士 階段を降りるとすぐに駅になってしまう。

坂戸 浅草の人にとって、銀座線というのはどんな感じなんですか。

冨士 僕らの世代の連中は、浅草からあまり出ないんですよ。僕が地下鉄に初めて乗ったときには、浅草寺の本堂がまだない頃なんです。

 戦災で焼けてしまって。

冨士 雷門はない、本堂はない、五重塔はないって、ないないづくしの浅草だったんですよ。そのうちだんだん、僕が小学3年生の昭和33年くらいに本堂ができて、その後、雷門が35年にできた。

 冨士さんもご存じの、僕の同級生の豊田君という仲見世の靴屋さんのご両親は、空襲のときに銀座線を防空壕代わりに使ったと言っていました。

冨士 もっと線を伸ばそうとしたのか駅を広げようとしたのか知りませんが、浅草駅の先に広い地下があるはずだって、うちの祖父なんか言っていましたね。

 その奧に逃げたということですか。

冨士 そうでしょうね。戦後、GHQのジープが落っこちたとか、そんな話もあったくらいで(笑)。

坂戸 三ノ輪までの延伸計画がずっとありましたよね。

冨士 いま、待乳山(まつちやま)(本龍院)の方向に実は地下鉄が変電所をつくって、折り返し線を延伸する計画をしているそうなんです。でもそれなら何でもっと先まで線を伸ばすことを考えないかなと思っているんです。

延ばして出口を言問通りを越したところにも作ってくれると、もっと浅草は面白くなると思っているんだけど。最近乗降客がすごい数になっているので、浅草駅は降車専門と乗車専門にホームを分けるという話があるくらいなんですよ。

 そうなんですか。

冨士 われわれが学生の頃の銀座線というのは、帰りは上野で人がザーッと減るんです。そこから浅草までというのは、もうガラガラの電車だったんですね。最近ですよ、いっぱいになっているのは。

特に一番ひどかったのは、オリンピックの直後ですね。カラーテレビが普及してしまったので、映画街が全部駄目になって、人が来なくなってしまったんです。

週刊誌に「斜陽 浅草」とデカデカと書かれて、人っ子一人いない6区の写真を見開きで出されて。

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