【三人閑談】
音楽家になるなら慶應へ行こう
2015/12/01
高かった輸入楽譜
吉松 それだけで裕福になったんですか。僕も大学1年のときにオーケストラを書いて音楽コンクールに出したんだけど、十数年間ずっと落ちっぱなしで1円にもならなかった(笑)。
藤岡 吉松さんは、大学生活では何をやっていたんですか。
吉松 作曲をやっていた。それだけです。藤岡君に最初に会ったときに言ったんだけど、10代のときに何をしていたか、記憶がさっぱりない(笑)。その頃は思い出したくないことのほうが多かったから。そうしたら藤岡君が、「人でも殺してたんじゃないですか」って(笑)。
私は父親がちょうど冨田さんと同じように、浜松高専でラジオをいじくっているときに、音楽が聞こえてきたという世代なんですよ。そして終戦直後にフルートを始めて、YMCAのオーケストラでフルートを吹いたりしていたんです。
冨田 じゃあ僕が和声学を教わっているときに、別の部屋から聞こえてきたあれがそうか(笑)。
吉松 そのときに、オーケストラの楽譜を「未完成」とか何冊か持っていた。僕が中学3年のときにベートーヴェンを聞いていたら、「楽譜があるぞ」といってそれを持ってきたことが、そもそも作曲家になろうと思ったきっかけです。
冨田 僕の場合はまだ楽譜を手に入れられなくて。
吉松 最初に「春の祭典」のスコアを見たのはいつ頃ですか。
冨田 それはずっと後になってから。いまは本郷にあるアカデミアが昔は荻窪で輸入楽譜を扱っていたんですよ。
小さな店でね。どうしてこんなところに専門的な店があるのかと思ったら、池内友次郎さんがその当時最高の指導者ということで、その弟子たちがいっぱいあの前を通るんですよ。その連中が買うものだから、店が成り立っていた。高かったですよ。1冊6000円とか。
吉松 僕は慶應高校から帰るときに、スコアは渋谷のヤマハで全部立ち読みしていました。高かったですから。
大学生がオーケストラに曲を書く
藤岡 要はみんな慶應の人たちは勉強せずに好き勝手なことをやっていた。そういう自由な独立自尊の精神があった。
吉松 それは自由でしたね。勉強しろなんて言わないし。
藤岡 冨田さんはそのコンクールの後、順調に作曲家としてスタートされたんですか?
冨田 運がよかったのは、コロムビアレコードやNHKがバックアップをしてくれたんです。僕は若かったのでちょっと興味を持たれて、「うちの仕事をやりませんか」みたいな話になった。
それで最初は「婦人の時間」のお話と音楽みたいな15分のコーナーの作曲をやったんです。それがなんか結構気に入られて、「立体音楽堂」というNHKがステレオで放送するという番組で仕事をするようになって。
藤岡 第1放送と第2放送を使ってステレオ放送するというものですね。
冨田 いやあ、忘れもしない、佐伯多門さんが設計した三菱のダイヤトーンが置いてあってね。そこですごい音が聞こえてくるわけ。それで100人近いオーケストラだからどんな曲を書いてもいい音になっちゃうんだよね。
藤岡 でもすごいですよね。大学2年生でそんな仕事をしていたって。
冨田 いや、運がよかったとしか思えないんだけどね。
藤岡 そしてその歳の頃、吉松さんは何をやっていたかというと……。
吉松 たぶん同じぐらいのペースで大学1年ぐらいからオーケストラを書いていると思うんですが、僕の場合は評価する人も、金を出してくれる人も、「君、才能あるね」と言ってくれる人もまったくいなかった。なにしろ初めて「オーケストラ曲を録音してあげる」と言ってきたのが藤岡君なんだよね(笑)。絵に描いたような「不遇」ですよ。
最近、16、7の慶應高校のときに書いていた曲をCDにしたんですよ。そうしたら、最近書いている曲と大して変わらない。
藤岡 モーツァルトと一緒じゃないですか(笑)。
吉松 だから17、8ぐらいの時期で、もうある程度作風というか音楽性って出来上がっているんですね。
冨田 まだいろいろ聞き過ぎて汚染されていない頃だから、逆に、自分の個性も出るんでしょう。
吉松 それもあるかもしれませんね。
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