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【三人閑談】
音楽家になるなら慶應へ行こう

2015/12/01

  • 冨田 勲(とみた いさお)

    作曲家。1955年慶應義塾大学文学部卒業。1970年代、シンセサイザー音楽家としてグラミー賞にノミネートされるなど世界的に高い評価を受ける。近年も「イーハトーブ交響曲」を発表するなど旺盛に活動。

  • 吉松 隆(よしまつ たかし)

    作曲家。特選塾員。慶應義塾高校を経て1971年慶應義塾大学工学部入学。在学中より作曲活動を始める。2012年大河ドラマ「平清盛」担当他、6つの交響曲など作品多数。

  • 藤岡 幸夫(ふじおか さちお)

    指揮者。中等部より慶應義塾に学び、1985年慶應義塾大学文学部卒業。関西フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者。BSジャパン「エンター・ザ・ミュージック」では司会も務める。

米軍艦から聞こえてきた音楽

藤岡 慶應は一般の私立大学としては稀有なぐらい音楽家を輩出していますね。

冨田 この間のコンサートでも、音楽をやりたければ慶應に来いと、藤岡さん、言ってたよね(笑)。

藤岡 3人とも慶應高校ですね。皆私の塾高の先輩です。

冨田 僕は岡崎の高校から編入したのが高校2年。

藤岡 最初に西洋音楽に出会った、あの話を聞かせてください。

冨田 ストラヴィンスキーの「春の祭典」ね。ラジオから聞こえてきたのは戦時中なんです。

藤岡 おいくつのときですか。

冨田 小学校6年か中学1年。僕ら、西洋音楽って知らなかった。全然そんな教育受けていないし、親父は古賀政男以外の音楽は全然興味がなかった。

名古屋、岡崎ではいつ空襲警報が鳴るか分からないのでラジオをつけっぱなしにして寝ろと言われていたんです。あの頃はAMの長波で相当音質は悪かったんだけれど、ダイヤルを回しているといろいろな珍しい音楽が聞こえてくるんだよね。そんな中で聞こえてきたのがアメリカの軍艦で鳴らしていた「春の祭典」。

吉松 長波だったんですか。

冨田 そう。長波だと放送局がどこにあるのかわからなくて爆撃されないからね。混線だらけの中で聞こえてきた。兵隊たちの慰安のための移動放送局なんです。

それと、グレン・ミラーの「ムーランイト・セレナーデ」が流れてきた。驚いたね、こんな音楽が世の中にあるのかと。あんなのは軍歌にはないからね。

藤岡 高校から慶應に行かれて、そこでLPで「春の祭典」を注文されたんですよね。ものすごく高いものを。

冨田 そうそう。3800円ね(笑)。

藤岡 輸入するときに割れるかもしれないと、2枚注文したという。

冨田 そう。破損しても補償しないと言われたんです。

藤岡 だから2枚頼んだ。いかにも慶應らしい(笑)。その頃は、もう音楽家になろうと思われていたわけですよね。

冨田 そうです。たまたま親戚の家にピアノがあったので、一応ツェルニーだとかやっていたんですよ。ハノンは、これは音楽なのかなと思いながら練習しましたけど(笑)。

吉松 それ以前は、音楽の素養はなかったわけですか。

冨田 何もないの、まったく。東京へ出てきてから信濃町の慶應病院の近くのおじの家に下宿するようになった。あの頃は一面焼け野原でした。ちょっと新宿に近いところに行くと、バラックのレコード店があって、それがコタニレコード店。進駐軍の兵隊がよく出入りしていたので、輸入レコードを扱っていたんですね。そこで「春の祭典」を買ったんですよ。

作曲家になるために慶應へ

藤岡 吉松さんの高校生の頃は、「春の祭典」は流行っていたんですか。

吉松 そうですね。

藤岡 吉松さんも塾高生の頃から作曲家になるつもりでいらしたんですよね。

吉松 中学3年のときにクラシックに目覚めて、作曲家になるために慶應高校に入ったんです(笑)。

藤岡 僕も一緒ですよ。小学校のとき指揮者になりたいと言ったら、じゃあ受験しろと言われて中等部を受けた。いったん入ったら受験がなくて音楽の勉強ができるからと。

吉松 入学するときに高校の案内を見たら、オーケストラのクラブがあるのが慶應高校だけだった。それで、慶應に入って自作の交響曲を自分で指揮して初演しようと(笑)。

それで慶應に行くと言ったら、曾祖父が医者だったので、慶應の医学部に行くんだなと勝手に思ってくれて。

藤岡 やっぱりお医者さんの血なんですね。冨田さんのところも、お父様がお医者様でしょう?

冨田 そうだけど、親父と音楽は関係ないよ。医者って仲間がいるでしょう。そこでやっぱり酒の席か何かになると、必ず子どもの話になる。肩身が狭いわけですよ。

何をやっているか分からないと言うわけにはいかないし、音楽をやっているとも言えない。ただ困ったのが先ほどの3800円のLPを買うとき。古賀政男のレコードはもっと安いわけですよ。

吉松 なるほど(笑)。

冨田 そんなにも高価なレコードには、きっと素晴らしい音楽が入っているだろうから、俺にもぜひ聞かせろと。それで親父が岡崎から東京に出てきたときに、聞かせたのがまずかった(笑)。

理解できるわけがない。考え込んじゃうんですよ。出だしのところのファゴットの非常に高い音域、あそこはアヒルが首をひねられているような音がすると。

吉松 的確な表現ですね(笑)。

冨田 早く終わってくれればいいなと思っていると、その次がクロマティック……。

吉松 ゴチャゴチャになりますね。

冨田 まったく古賀政男的なところが出てこない(笑)。まずいなと思っていたら、その次にドンドンドンドン。当時、うちわ太鼓というのが流行っていてね。

ストラヴィンスキーの高いレコードを買わされたと思ったら、変な宗教がついていると思われたようで、岡崎に帰っておふくろに、どうもとんでもない宗教にのめり込んだようだと言ったらしい(笑)。

さあ大変。すぐ帰ってこいって。そこから説教ですよ。あんな音楽を芸術と呼べるのか、だいたい金になるのかと言うわけ。そりゃあ親だったら心配しますよね。

藤岡 冨田さんは、慶應に入ってから、音楽の勉強を始められたんですか。

冨田 親父に内緒でね。神田小川町のYMCAの中に芸術園というのがあったんです。

そこで、その当時有名な作曲家だった弘田龍太郎がドイツのヤーダスゾーンの和声学を教えているというので、僕はヤーダスゾーンなんて全然知らなかったけれども、何でもいいから何か基礎になるものを覚えたいと思って、そこに入ったんです。

藤岡 それで「春の祭典」を耳で覚えて楽譜にされたんですか。

冨田 そこまではいかないですよ。だけど、人の顔を1回見ると忘れないのと同じようなもので、やっぱり「春の祭典」のあの強烈なメロディー。それからグレン・ミラーのコードは頭に焼き付いていたね。

藤岡 大学に入られたときには、もうNHKでラジオの仕事をされていましたよね。

冨田 大学2年のときに、朝日新聞が全日本合唱連盟のために課題曲を募集していたんですよ。そこに応募したら運よく通っちゃった。

それが朝日新聞の全国版に名前が出たので、それまで息子のことで肩身が狭かった親父は周りに言いまくって、お金もくれて、それでちょっと裕福になって(笑)。

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