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田沼千秋:慶應の学食から総合フードサービス企業へ

2017/08/01

「さぼてん」の名前の由来

──その後、会社は急成長されていくわけですね。

田沼 いくつか会社の食堂のお話をいただき、事業もそこそこまとまってきた中で、自分たちで商品、契約、値段を決められるレストランを開業したいと思ったのですね。そこで1966年12月、新宿に小田急地下名店街ができたとき、その端に「さぼてん」1号店をオープンしたんです。

──どうして「さぼてん」という名前を付けたのですか。

田沼 父が大変親しくしていた日墨協会の会長をやっている方とメキシコに行く機会があったらしいのです。ソンブレロを被って、派手な格子の肩掛けをしているのにヒントを得て、メキシコ風の内装にするとんかつ店を思いついた。メキシコだから名前は「さぼてん」にしようと(笑)。

──非常に分かりやすい(笑)。

田沼 「さぼてん」がオープンした翌月、すぐ近くに中国料理店を出すことになった。この店の名前は、サボテン、シャボテン、シャホウデンという語呂合わせで「謝朋殿」になった(笑)。中国の人に聞いたら「その名前、いい名前です」って言ってくれたそうです。

──そうですか。面白いですね。お父さん、結構アイデアマンというか。

田沼 笑ってしまうところがあるんです。面白いんですよ。何か周りの緊張を解く人柄でしたね。相当修羅場を潜っているけど、1回もそういうことを顔に出したことはないですね。

僕は経営者仲間から、「あんたのお父さんは徳のある人ですよ」とよく言われました。心の中で「あ、困っている」と思っている人に手を差し伸べるようなところがある人だったのかもしれません。周りの皆がほっとするんですよ。

株式を上場

──今度は田沼さんが経営に入られてからを伺いたいと思います。いま、グループで1377億円の売り上げと成長していますが、この過程の中でいろいろなことをやられていますね。

田沼 何をおいても父に種を蒔いてもらったということが大きいです。私は大学を卒業したのが1975年で、その年野村證券に就職し、1977年の3月までいて、本当にいい経験をさせてもらいました。

辞めた後、コーネル大学大学院に2年間留学したんですね。行く前の1977年にレストラン事業の年の売り上げが13億円。軒数でいうと15軒ぐらいですかね。1980年に戻ってきたときには、それが24億円ぐらいになっていました。レストランというのは投資を伴う事業なので、野放図にどんどん出せばいいというものじゃない。これは怖いなと思いました。

あの頃、金利がすごく高くて、銀行から借り入れをしたら10%を超えてしまいます。4億も5億も借りてしまったら金利を払えなくなって大変です。それで私はレストランの事業は、出店するのだったら、収益が上がるにはどのようにしたらいいかを考えてから出店しようと言いました。

まだ若いのに、「こんなことをやっていたら会社つぶれます。どうするんですか」と言ったので、反感も買いましたが、結局、その中で何人かが付いてきてくれて、レストラン事業はその後売り上げが約20年で10倍。グリーンハウスの事業は1988年に157億でした。

──そのなかで株式を上場されるんですね。

田沼 「上場しようと思うのだけど」と親父に言ったのが1988年です。「いいじゃないか。やれ」「もし上場して失敗したら会社を売却しなければいけなくなりますよ」「まあ、俺は裸一貫で一から始めた。もう1回そこからやればいいじゃないか」って言ってくれたんですよ。

僕はそれで俄然やる気が出ました。こんなことを言われたら頑張らなければいかんなと。それで1年ちょっとで準備して、1990年に上場できたのです。上場してから非常にいい人材が採れるようになり、その後の10年は非常に成長ができましたね。

1999年にカルロス・ゴーンさんが日産に来て、日産自動車が直接関わらないレストラン、食堂などの関連会社は全部売却し、私どもはレストランと食堂の事業部門を譲り受けました。65%だけ出資して、35%は日産自動車が持っていることにし、社員1300人を預かったのです。そのあと、17件、そういう形で大企業のアウトソーシングによるM&Aをやりました。

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