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田沼千秋:慶應の学食から総合フードサービス企業へ
2017/08/01

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インタビュアー大見山 俊雄(おおみやま としお)
ジェイアール東日本商事常務取締役・塾員
慶應の学食からスタート
──創業70周年おめでとうございます。ここまでグリーンハウスは総合的なフードサービス企業として発展されてきたわけですが、ご創業の発端は慶應の学食からということですね。
田沼 有り難うございます。2000年に亡くなった創業者の私の父、田沼文蔵は実は早稲田だったんです。戦争中、軍に召集され、ものすごく苦労したようです。
最後はベトナムのハノイで終戦を迎えたそうです。南のほうからハノイまで300キロぐらい、120人程で7台ぐらいの車で隊列を組んで物資を運ぶ自動車部隊の中隊長をしていました。上空から機銃掃射でやられて、最後に生き残ったのが30人と言っていました。ともかくひどかったらしいです。
──慶應との縁はどのようなものだったのでしょうか。
田沼 戦場から引き揚げて、大学に戻って卒業し、そのときに早稲田の先生に就職口を斡旋してもらい、慶應の森安正教授を紹介いただいた。当時予科次長だった森先生は慶應大学の学生が登戸に150人近く疎開している(※昭和20年10月から予科生が学んだ仮校舎を指す)ので、そこの寮生の面倒を見てくれないかと言われた。前原光雄教授や、後に塾長になられた永沢邦男教授の後押しもあったようです。それで、学生寮の舎監になり、寮生を集めて要望を聞いてみると、もうお腹が減ってしょうがないと言う。そこで、やったこともないが、見よう見真似で食事を出したのがスタートなんです。
青白くて栄養失調みたいな子がずいぶんいたそうです。あまりにお金がなくて倒れそうな子には見るに見かねて時々無料で食べさせてあげたらしい。ものすごく喜んでくれたそうです。
──どういった食事を出されていたのですか。
田沼 やはりイモが多かったようですね。白米なんてほとんどない。「いもごはん」というのがあって、「いも入りのめし」ではなくて「米入りのいも」だったという(笑)。なんか「ノリームパン」というのもあったそうです。クリームでなく糊を付けるわけですよ。
──麩(ふすま)入りの小麦粉のパンですか。
田沼 そう。麩から作って、トロッとして。砂糖は当時、高級品でしたからサッカリンとかを加えて。
「立ち退き」からの教訓
──昭和24年に米軍の接収が解除となり、翌年から日吉キャンパスに学生が戻ってきましたね。
田沼 そうです。それでそのまま食堂も移させていただいた。そうやって学生さんの面倒を見ていたのですが、慶應の創立100年のときに記念館をつくることになり、ちょうどその場所に食堂があったので、申し訳ないけれど立ち退いてくれと言われた。その当時、当社はこの1軒しか食堂がなかったので、ここがなくなったら60人程の社員の仕事がなくなってしまう。
最初は代替地もままならかったようですが、もとの食堂の脇に食堂を建てられることになった。ただ、問題は建て直すお金がないことです。それをつくるのにずいぶん苦労したらしいです。父は大型特殊免許を持っていたのでダンプの運転手などをし、1年程度食いつないだようです。そんなこんなで1年半経ってようやく食堂が再開でき、社員さんがほとんど戻ってきてくれた。
その1年間クローズしたときの経験から、食堂が1カ所だけというのは危険だと多店舗展開を考えたそうです。何年か後に日吉キャンパスのちょっと先に松下通信工業の大きくて立派な最先端の工場ができて、日吉で食堂を利用した卒業生からそこの食堂をやってくれないかと声がかかった。それをスタートに他の会社や学校の食堂を手掛けていくようになりました。
──「グリーンハウス」という名前は学生からの公募だそうですね。
田沼 そうなんです。高橋誠一郎先生に選考委員長になってもらったようです。採用された学生は、1年間食事はタダにするということにした(笑)。「グリーンハウス」という名前は、環境に優しいイメージで、先見の明があったかなと思います。
──学食1年分というのはすごいですね。
田沼 いや、相当後悔したと思います(笑)。1食50円だって1年分といったら大きいですからね。
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田沼 千秋(たぬま ちあき)
株式会社グリーンハウス代表取締役社長
塾員(昭50経)。野村證券を経て1977年グリーンハウス入社。93年同社社長に就任。日本フードサービス協会会長等を歴任。