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【演説館】
稲嶺惠一:沖縄県知事であるということ

2019/01/17

辺野古移設計画のスタート

1998年、県政不況打破のためとの経済界の強い要請を受け、私は県知事選に出馬することになった。

選対本部は、経済界を中心に、医師会、農協、元革新幹部などで固め「県民党」と称し、ユニークな体制でスタートした。

しかし沖縄の選挙の最大焦点は基地問題であり、普天間飛行場の移設問題を抜きにして選挙戦を闘うわけには行かない。しかも県内世論60%以上の新しい基地反対の動きにどう立ち向かうのか。結果的に「軍民共用空港」「使用期限付」「移転先北部振興」という条件付容認案が、県民の理解を得、勝利した。

1999年、県は、条件付きで普天間飛行場の辺野古移設案を発表、政府は12月28日の閣議において「国際情勢の変化に対応して」との条件付きながら、県側の案を全面的に受け入れた。

しかし、その後の計画はなかなか前には進まなかった。最大の要因は国と県の微妙な温度差だった。県としては厳しい世論を背景に、協力できる範囲は限度があるとの主張に対し、国は、決まった以上、全面的に協力しろと難問を押し付けてきた。調査やぐらに対する妨害運動の取締りまで県に要求してきた。現内閣の、国を挙げての強行姿勢とは異なる状況だった。

2006年、在日米軍再編協議において、移設先は現在地に決定したが、「軍民共用」「使用期限付」の条件は消え失せ、私は同意する訳にいかず、さりとて政府と全面的に対立して前県政の轍を踏むわけにもいかず、今後の継続協議を条件に基本確認書を取り交わした。

鳩山発言の影響

私の次に登場した仲井眞弘多(なかいまひろかず)知事は、厳しい現実にさらされることになった。安倍、福田、麻生内閣に続き、政権が民主党に変わり、鳩山由紀夫内閣が誕生した。

絡まりながらも、何とか繋がっていた糸を切り裂いたのは、鳩山首相の「国外少なくとも県外」の発言だった。辺野古移設反対の世論は、一挙に80%を超えた。一国の総理が言い切ったのだから実現可能なのだ。我々は、もう苦渋の選択をしないでいいのだと。

国の方針がそうならと、仲井眞知事も再選時の公約に「県外移設」を打ち出した。選対本部長は翁長雄志那覇市長だった。

その後鳩山首相は発言を撤回、菅、野田内閣の後、自民党安倍内閣の再登場となった。日米関係の強化を優先し、移設問題にも精力的に取り組んだ。

国との協調を優先した仲井眞知事は、埋め立て承認に踏み切り、裏切り者とのレッテルを貼られた。仲井眞知事の選対本部長を務め県内保守派のリーダー的存在だった翁長雄志市長は、戦後の歴史を振り返り、基地負担は全国的課題であり、沖縄一県に過大な負担をかけるべきではないと主張し、保守系の一部を引き連れ、同調する革新層、無党派層の支持を取りつけ、仲井眞知事の対抗馬として2014年の知事選に立ち圧勝した。

劇的な展開

翁長雄志知事は、当選後も一貫して所信を曲げず、政府と全面的に対立し続け、その最中、ガンに冒され他界した。悲劇的な最期だった。

玉城デニーは、故人の遺志を受け継ぐと宣言、弔い合戦に圧勝した。新知事は話し合いを基調としているものの政府のガードは固く、目下のところ、解決策は見当たらない。

これまで沖縄県、基地所在市町村は、いずれも多くの人材、時間を、基地問題に費やしてきた。県政の取り組むべき課題は、経済、福祉、教育、環境、離島など、山積している。歴代知事は、基地問題を早く片付け、諸問題に全力で取り組みたいとの想いだった。玉城知事も同じ想いであろう。

国の全面的協力なしには沖縄の振興は進まない、さりとて、ここまで絡みあった難問を一挙に解決することも難しい。お互いにギリギリの妥結点を探り、光明に突き当たらんことを心の底から願っている。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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