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【演説館】
稲嶺惠一:沖縄県知事であるということ

2019/01/17

本土復帰

1972年、沖縄は27年間の米国統治を終え、本土復帰を果たした。

復帰運動の中心勢力は、教職員団体で、そのスローガンは、(米軍基地の)本土並み返還だった。しかし復帰後の基地の状況はそれほど変わることなく夢破れ、基地反対へと変わっていき、経済振興を掲げた保守との対立の構造が築かれ、復帰後の混乱に拍車をかけていった。

復帰直後のNHKの調査によると、復帰して良い51%、悪い41%、翌年の1973年には、良い38%、悪い53%と否定的な意見が過半数を超え、県民の複雑な感情を表している。

かかる世論を背景に、復帰後の知事選挙は、初代、屋良朝苗(やらちょうびょう)、2代、平良幸市(たいらこういち)と、いずれも革新系知事が誕生した。1978年、平良知事の病での退陣を受けての選挙では、経済振興を訴えた保守系の西銘順治(にしめじゅんじ)知事が、当選した。NHKの復帰10周年の調査では、良いが63%と大幅に伸びたが、それは、米国統治時代、大幅に立ち遅れた経済を着実に伸ばしていった西銘県政の評価と言えよう。反面、進まなかった基地対策に対する不満が徐々に高まり1990年、再び革新系平和学者、大田昌秀知事の誕生を見た。

普天間移設問題

周囲を、住宅地に囲まれた普天間飛行場の危険性については、それまでも度々指摘されていたが、この問題が大きく動き出したのは、1995年、大田県政時に発生した、米海兵隊3人による悲しむべき少女暴行事件だった。その後、直ちに県議会議長を大会議長に、県内の全ての団体が参加し、県民大会が開催され(主催者発表8万5千人)、米軍の綱紀粛正や、日米地位協定の見直しなどを強く訴えた。

この事件は、日米両政府に強烈なインパクトを与えた。米国内でも「もう沖縄に基地を置くことは出来ないのではないか」との意見もあったと聞く。

県民大会の行われた翌月、早速、SACO(沖縄に関する特別行動委員会)が設置され、米軍基地の整理、統合、縮小に取り組むことになった。

沖縄の動きを心配した橋本龍太郎首相は、沖縄に太いパイプを持つ秩父小野田セメント・諸井虔相談役に、大田昌秀知事の真意を探るよう依頼した。諸井氏は直ちに沖縄へ飛び、大田知事と余人を交えず話合い、帰京後、首相に「大田さんは米国留学をしていて、むしろ親米的で反米的ではない。最優先事項として普天間飛行場移設を要望している」旨を伝えた。

その報告を聞くや否や橋本首相は、「私の一番知りたかったのは、そういう生の情報だ」と喜び、直ちに具体的行動に移った。外務省や防衛庁の反対を押し切り、直接モンデール大使に話を持ちかけ、クリントン大統領の了解をとり、1996年4月の橋本・モンデール会談において、普天間飛行場の5〜7年後返還を発表した。

橋本首相の沖縄問題解決への熱意は強く、実に17回も大田知事と個別会談を行っている。両者亡き後、その会談内容は今もって謎だ。

その両者間に、亀裂が走ったのは、1998年名護市長選挙直前だった。突如大田知事が普天間飛行場移設案だった海上基地構想にNOをつきつけたのだ。それに怒った政府は、沖縄振興のため1996年9月にスタートした沖縄政策協議会の開催もストップし、パイプの蛇口は閉められた。沖縄経済は落ち込み、失業率も最悪の9.2%に達した。

このままでは沖縄は沈没してしまうとの強い危機感から経済界を中心に県政交代の動きが出てきた。

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