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【演説館】
稲嶺惠一:沖縄県知事であるということ

2019/01/17

  • 稲嶺 惠一(いなみね けいいち)

    元沖縄県知事(1998〜2006)、㈱りゅうせき参与・塾員

このたび、本誌より、昨年8月の翁長雄志(おながたけし)知事の逝去に伴う選挙を経て、いまだ解決の道が遠い沖縄の米軍基地移転に伴う様々な課題について、沖縄県政を2期8年にわたって担った塾員の私に、本土になかなか伝わりにくい様相を含めて「沖縄県知事であるとは、どういうものか」を、分かりやすく書いてほしいとの依頼があった。

期待に応えられるか分からないが、私なりにくだいて解説したいと思う。

他府県知事との相違

沖縄県知事と他府県知事との大きな相違は、国の専権事項である外交、防衛に係る基地問題のウエイトが、非常に高いことにある。業務量はともかく、頭の中の7〜8割は基地問題で占められる。県議会の知事答弁の大半は基地問題、特に再質問は、圧倒的に多いと言えよう。マスコミの取り上げる沖縄関連報道も、その大半は基地問題だ。

年2回開催される全国知事会において、沖縄側から提出した、米軍の綱紀粛正や、地位協定の見直しなど、基地関連の要望に対し、全員の賛成で決議事項の最後に加えられるものの、質問や賛成、反対の意見も殆どなく、その度に、他府県との温度差を感じていた。

何故、それほど感覚の違いが出てきたのか。それを紐解くと、戦後27年間にも及ぶ米国統治時代に遡らざるを得ない。

戦後27年間の米国統治

第2次大戦において、沖縄は、国内唯一の戦場となり、4分の1の県民の命が失われるという悲惨な結果になったが、問題は、占領軍がそのまま居座り続け、1951年、サンフランシスコ講和条約において、完全に日本から切り離され、米国の統治下に入ったことにある。

戦後、国際的には、米ソ冷戦緊張下の1949年、中国共産党による本土掌握、1950年、朝鮮戦争の勃発が加わり、緊張度は増し続けた。一方国内では、内灘闘争や、砂川闘争など、根強い基地反対運動が広がった。日本国内での左翼勢力の伸長を恐れた米国は、国内の基地を大幅に縮小。米国統治下にある沖縄に基地を集約した。その象徴的なものとして、1955〜56年において、山梨、岐阜に駐在した海兵隊を、沖縄に移駐したことが挙げられる。

もちろん、沖縄においても伊佐浜闘争や伊江島闘争のように強烈な反対運動が起こったが、日本の施政権の及ばない沖縄において、これらの動きは強引に抑え込まれ、いつの間にか、日本全土の1%にも及ばないこの沖縄に、在日米軍専用基地面積の70%以上が置かれることになった。

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