【その他】
【講演録】幕末薩摩の若者たちと私──薩摩スチューデントを追って
2025/02/13
スエズで製氷所を見学
そしてスエズに着くと、そこから汽車に乗るのですが、途中のカイロ駅のホテルで休息するんですね。そのときに駅に着くと、「薩摩ご一行様、こちら」という大きな札が出ていた。どうしてこの人たちは何百里も離れているのに、俺たちがこの汽車で着くことがわかったんだろうと、不思議でしょうがない。そうするとホームが、「いや、もう電信で知らせてありますから」と言う。電信とは何かと言うと、線路の脇に線がずっと立っている、あれで知らせると。
また、スエズ運河を作るのに、人夫たちのキャンプみたいな飯場がずっとあるわけです。人力で運河を掘るわけですが、砂州に近い、干潟に近い浅いところはdredgerという浚渫船を使って、砂を掘ってスエズ運河は作られているんです。そういうところも見て、運河を作るには、こういう船も必要なんだと学ぶ。
スエズでは製氷所も見学に行っています。それより以前にインド洋を走っていた時、一行はアイスクリームを食べるんです。酷熱のインド洋で、一等船客にはアイスクリームが振る舞われた。薩摩のお侍さんたちにとって、このように冷たいものがどうやってこの酷熱の船の中に置いておけるのだろうと不思議でならない。まさか氷を作っているとは思わないですから。すでにこの頃、アンモニアを使う製氷機ができていたのですね。
それで、スエズで製氷所を見に行くのですが、その前に製水所があり、そこは海水を汲み上げて石炭を燃やして蒸発させて真水を作るんです。そういう水工場と製氷所があるわけです。それがなければ、あんな砂漠の中で何千人という人夫を働かせることはできない。その巨大なる計画を見て、びっくり仰天したことが書かれています。
そんなふうに、行く先々で彼らは西洋文明というものはどういうものなのかを実地に学んでいく。ここに、薩摩藩が一等船室の客として若い人たちを旅させたことの意義があって、向こうに行って学んだことは実はそれほどでもないにしても、この長々とした旅の間に彼らが学んだことは実に莫大なことであったと思います。
モンブラン伯爵とオリファント
この時代は、怪しい輩もいっぱい暗躍するんです。モンブラン伯爵(コント・モンブラン)というフランス人がいて、「北義国(ベルギー)商社条約」とかいうようなものを薩摩藩と結ぶんです。薩摩藩の海外貿易はすべてこのモンブラン伯爵がエージェントになるという条約なんですが、薩摩藩はこの条約を全く守りませんでした。
なぜかというと、たぶんこのモンブランは最初は幕府に接近したと思うんですが、相手にされなくて、それではというので薩摩のほうに来たらしい。ちょうどそのとき五代たちの使節役がイギリスにいるのを、モンブランはフランスの自分のお城に招待して大歓迎するんです。それですっかり五代は信用して条約を結ぶ。ところが白川(斎藤)健次郎という通訳が付いているんですが、これが実にいかがわしい人物なんです。後に鮫島誠蔵が手紙で、誠にいかがわしい人物と書いている。このように薩摩藩の枢要のところに、「モンブラン信用するべからず」ということがおそらく行ったと見えます。だから一応条約は結んだけれど、少しもモンブランを相手にしなかった。
そこで後にモンブランは条約違反ではないかと文句を言って、鹿児島までやってくるんです。ところが五代友厚はモンブランよりも山師的才能では一枚も二枚も上なんです。開聞岳のふもとの温泉場に連れていき、そこでごちそう攻めにしまして、ああだこうだと、一切言うことを聞かずにそのまま帰してしまい、薩摩藩はモンブランに騙されないで済むんですね。それもやはり彼らがイギリスで、ヨーロッパの人たちの有り様を見ていたからだと思います。
また、当時イギリス外交部で松木弘安らの相手をしたのはローレンス・オリファントという人です。このオリファントは日本で浪人に斬られて重傷を負ってひどい目にあったんですが、終生非常に親日的でした。ちょうど松木たちがロシアの状況も視察してイギリスに帰ってきた時、あの国は自分たちのことしか考えない国だから信用するなと言うんです。
ところがオリファントが偉いのはそれだけではない。ロシアは信ずべからざる国だ。だけど、ではイギリスは信じるべき国かと言ったら、そんなことはないと言うんです。ヨーロッパの列強というのは、相手に隙があったらこれを食い物にしようと思っている連中なんだから、日本はヨーロッパと付き合うにはゆめゆめ騙されないように、油断してはいけないと言うんです。
蒸気耕運機を即座にマスターした日本人
ロンドンでこの薩摩の一行を指導したのは、アレグザンダー・ウイリアム・ウイリアムソンという人なんです。この人は右手が少し不自由で、化学者なんですが、非常に篤実、誠実の士であった。このウイリアムソン博士が彼ら一行を、7月29日にベドフォードというところに案内します。このベドフォードには当時、ブリタニア鉄工所という大工場がありました。ここではチャンピオン号という蒸気耕作機械を世界最先端の技術で作って、アメリカなど世界中に輸出していました。
私は実際にブリタニア鉄工所跡に見学に行きましたけれど、もう全く工場は残っていなくて、門だけが記念物としてありました。そこでの彼らの様子は、『The BedfordTimes & Bedfordshire Independent』という新聞に出ています。
「去る土曜日、大英帝国の農業ならびに工業に関する知識を得るために日本の諸侯より派遣された日本人の一団がブリタニア鉄工所を訪問した。彼らはロンドン大学のウイリアムソン教授ならびにグラスゴー大学の自然哲学教授その他著名の科学者に引率され、探究に当たってその指示に従った。日本人は、その風変わりな体つきがかなり興味を引き、蒙古人風の風貌が印象的であったが、しかし彼らは機械ならびにその工場における操作の過程に多大の興味を寄せた。とりわけ、おのおの細部に至るまで驚くべき速さで理解するようであった。工場を立ち去るについて、彼らはきわめて名残惜しい風情を見せたが、とりわけ最新型の蒸気耕運機の運転を目の当たりにして、およそ15人ほどの日本人たちはその機械に殺到して、まさに足の踏み場もないというようなありさまであった。そしてその広い中庭を喜び勇んで右往左往しつつ見学して回るのを見るのは、まことに興味深い風景であった。工場で3時間ほど過ごした後、一行はわれらが敬愛する市長(ジェームズ・ハワード氏)との昼食に臨み、そのあと、ハワード家のクラパムの農場における蒸気鋤の実見に赴いた。そこで、彼らの驚きは極点に達した。そのマシンの操作が、想像していたよりもはるかに容易であることを発見したからである。あまつさえ、そこで作業中の刈取り機の操作を、彼らはたちどころにマスターして、巧みに操ってみせた。ついでに、彼らはビドナムのチャールズ・ハワード農場へ、有名な短角牛と羊を見学に赴き、その後またハワード市長邸において晩餐を共にして、最終列車でロンドンへ帰った」(林訳)。
つまり当時世界最先端の機械であった蒸気鋤の操作を、彼らはたちどころにマスターして運転して回ったというわけです。その優れた知性と科学的な思考法を見て、イギリス人は日本人に対してちょっと特別の感情を持った。そして薩摩藩とイギリスが特別の友誼に結ばれていたことは、その後の明治維新の展開に非常に大きな意味を持ちました。
ロンドンで結ばれた薩長の若者たちの絆
維新から約30年後、日露戦争の前に、両国間に日英同盟が結ばれます(1902年)。日英同盟というのは、言ってみれば海軍の同盟です。明治政府で海軍は薩摩が作り、陸軍は長州が作ったんですね。条約改正に真っ先に応じた(1894年)のもイギリスです。その時に、この薩摩スチューデントたちがいわゆるテクノクラートとして、陰になり日なたになり、大きな役割を果たしただろうことは想像するに難くないわけです。
そういうことは、いわゆる明治の元勲の働きというものとはまたちょっと違うので、あまりテレビドラマなどにはなりません。けれど、例えば畠山義成は東京大学の前身である東京開成学校の初代校長です。それから、東京博物館(現国立科学博物館)、今の国立国会図書館の前身である東京書籍館の館長もこの畠山が兼務したのです。
明治維新というといわゆる西郷隆盛や大久保利通といった元勲ばかりに目が行きますが、実際には明治政府を運転していたのは、薩摩スチューデントに代表されるテクノクラートたちでした。山尾庸三という「長州ファイブ」の一人がいますが、その人はイギリスに来た時、グラスゴーに工業の勉強に行きたかったけれど、彼らにはお金がなかった。そこで薩摩人がロンドンにやってきた時、山尾がグラスゴーに行きたいけれどお金がないと聞いて、皆1ポンドずつ出し、彼を工業の勉強に行かせたことがありました。後にこの山尾は日本インダストリーの父と言われて工部卿になりますが、そうなったのは薩摩スチューデントが喜んで協力して、彼をグラスゴーに送り出したからです。
「長州ファイブ」という映画があるけれど、あの映画は、長州の5人と薩摩の学生たちは酒場で喧嘩をしたようなことを言っているらしいんだけど、それは大嘘で、真実は、薩摩の学生たちが着いたその3日後には、長州の学生たちは面会を求めています。その仲立ちをしたのがグラバー商会のホームです。薩長同盟は坂本龍馬がやったと言われますが、薩長同盟ができる前に、ロンドンでは薩長の若者たちは手を携えて、日本の将来のために勉強をしていた。このことは忘れてはならないのではないかと思います。
時間が過ぎてしまいました。今日はこのぐらいにいたします。有り難うございました。
(本稿は2024年12月4日に行われた「第713回三田演説会」での講演を元に構成したものです。)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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