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【講演録】幕末薩摩の若者たちと私──薩摩スチューデントを追って

2025/02/13

サウサンプトンからロンドンまでの風景を辿って

さて、スチューデントが実際にイギリスに着いてからはどうであったか。この船はサウサンプトンに到着するんですが、当時イギリスの貿易港としてここは非常に栄えておりました。サウサンプトン港は天然の要害のようなところで、非常に波静かなのです。ドーバー海峡のあたりは、波が荒くて風が強いのですが、サウサンプトンはそんなことはなくて、港に非常に適している。

すでに当時、サウサンプトンからロンドンまでサウス・ウエスタン鉄道が通じていました。このサウサンプトンのターミナル駅の駅舎は、現在も建物が残っていて、これがすなわち薩摩スチューデントが見たものです(写真)。低いほうの建物がサウサンプトンの終着駅だった建物です。サウサンプトン・ターミナスという名前で呼ばれていました。隣の建物はサウス・ウエスタン鉄道が経営していたターミナルホテルです。彼らはサウサンプトンに朝早く着くと、このホテルに入って休息し、夕方の列車でロンドンに向かうのです。

現在のサウサンプトン駅は別のところにあり、ターミナスの駅舎は現在カジノとして使用され、隣の旧ホテルはリゾートマンションに転用されています。このようにイギリスというのは、150年程度の昔であれば、今でも建物が残っているのですね。建物の中も見せてもらいましたが、当時のレールが残っているんです。このレールを通ってロンドンに行ったのだろうと思います。今も鉄道は当時のサウス・ウエスタン鉄道と同じ路線を走っていますので、スチューデントがロンドンまで行くのにどういう風景を見たかがわかります。

現在のサウサンプトン・ターミナス

それで私は東大で景観学というものを勉強している助手を連れてまいりまして、私が進行方向左側、その学生は右側に座って、同じ鉄路を行ったり来たり何度も往復しながら、何が見えるかを逐一メモしました。そのように調べて、当時の薩摩スチューデントが見た風景を小説の中に書いています。幸いにイギリスは当時とあまり風景が変わらないのでとても有り難いんです。

ロンドンでの留学頓挫の事情

本来、この薩摩スチューデントは2年ぐらいロンドンのユニヴァーシティ・コレッジに留学させる予定でした。当時、オックスフォードとケンブリッジは、原則としてイギリス人、特にイギリス国教会の信者でないと入れてくれないんですね。そこで、ロンドンに新しく庶民のための、宗派に関係なく入ることができるように作られたのがユニヴァーシティ・コレッジという当時最先端の大学です。

なぜこの小説が『薩摩スチューデント、西へ』となっているかというと、この薩摩スチューデントという挙は、実はちゃんと成果を収めたとは言えないんです。まず、着いたのが夏休みでユニヴァーシティ・コレッジはまだ始まっていなかった。そこで秋の新学期が始まるまで、彼らはケンジントンのベイズウォーターの近くに一軒家を借りて下宿をし、そこに賄い婦と語学の先生など何人かを雇った。ちょうどケンジントンパークの北側のところです。あのあたりは今でこそ大変繁華ですが、1865年前後は新興住宅地で、そこからちょっと西に行くと、まだ一面が牧場のような田園だったんですね。

そして、大学がいよいよ始まる頃になりますと、日本では段々幕末騒乱の時期となって、当時薩摩藩は矢継早に九艘の蒸気船をイギリスから購入したりしていますので、さすがに予算が逼迫してきたとみえます。これは幕府の水軍に対抗するためでしょうね。それも全部いくらで買ったということまでわかっています。そういう資料を見ると、なぜ薩摩スチューデントの留学の挙が挫折したかは、結局お金がなくなってしまったからなのだとわかります。

さあ、これから新学期と張り切っているところに、藩費が続かないから帰国せよという命令が出るんです。それでこの学生たちは、アメリカやフランスに移ったりしてちりぢりバラバラになって、それぞれの道をたどって帰国してしまいます。薩摩スチューデントがその後イギリスでどういう勉強をしたかをどうして本に書いていないのですかと言うけれど、勉強をしようと思っているときに、その挙そのものがなくなってしまったんですね。だから、西に行くまでの旅の間の見聞が彼らの一生を規定したんだ、ということが、一番私がこの小説で書きたかったことなんです。

旅の途上で西洋文明を知る

西に行くまでの旅の間の見聞が彼らに大きな影響を与えたということは様々なところからわかるんです。例えば香港に行った際、ライル・ホームというグラバーの番頭みたいな人が案内役として付くんですが、彼がボタニカルガーデンに一行を案内する。これはその前年に香港に開かれた植物園で、今で言うイングリッシュガーデンです。ボタニカルアート、ボタニカルガーデンというものはイギリスの非常に重要な文化の一つですが、そういう出来立ての美しい庭園を見せられたわけですね。それから当時、イギリス人が持っていたドックへも見学に行っています。

シンガポールに着いた時は、2つ大きなことがありました。これは松村淳蔵の日記のほうに詳しく、「土地の人、黒人裸体またよく水に入り、銭を水に投ずるに入水してよく水心知る」とあります。つまり黒人の少年たちが海で泳いでいて、そこに銭を投げると、この少年たちがその銭を拾うということがしきりと行われていたというわけです。そういうものを見て、薩摩の学生たちはどう思ったでしょうか。もし自分たちの薩摩、日本がシンガポールや香港のような植民地になったら、西洋人の投げた銭を喜んで拾ってくるのは自分たちになってしまうのではないかと思ったに違いないと思います。

もう一つ、これは畠山義成も松村淳蔵も日記に詳しく書いているのですが、オランダ人の商人らしき人がシンガポールにおり、この人の奥さんと子どもはオランダに帰ることになった。そしていよいよ家族が別れるという時のことをこう書いています。「西洋人訣別甚切なる物也、爰に和蘭(オランダ)の人、此「シンガポール」の隣国に商売にてか来たりて居し、然るに故有て其妻は先に帰国なる、其時其夫送別に船迄来たる、尤子四五人有ると見え候、互いに別離の愛情難忍見へ候。期に臨て訣袖の時は、夫か右の妻の口を吸ひ候て別候。その次第実に傍よりも痛敷みえ候。扨一度にては落着かず、再び吸合ふたる傍には開帆の事に、欧羅巴印度船客に送別に来る人数百人来たりし中には、とんと傍に人なきが如くみへ候。子供にも同断、右の親が口を吸ひつつ別れけり、我輩は斯ることははじめて見たることにて驚嘆して居し、親敷別には口を互に吸ふが尤もよき禮と聞き及び候」(松村日記)。

日本人の当時の考えでいうと、口吸い(接吻)というのは人前では絶対にしない。これは房事、寝室の中の色ごとに属していましたから、子どもも見ている、衆人環視の前で何度も口を吸い合っているのは、すごいショックだったと思います。でも、これが西洋人の流儀だということを、おそらくホームからでも教わったのでしょう。後に新納刑部は留学中だった自分の息子にこのことを手紙で書き送って、これが西洋人の流儀だと言っております。そういう一つ一つのことから、ずいぶん文化というのは違うものだと知ったのだと思います。

また、香港はガス灯が点いているから、夜もこうこうと明るい。鹿児島の町なんか、夜になれば真っ暗けだ、これは全然違うんだと、こうやって西洋の文物を学んでいく。

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