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【講演録】幕末薩摩の若者たちと私──薩摩スチューデントを追って

2025/02/13

  • 林 望(はやし のぞむ)

    作家、国文学者・塾員

『薩摩スチューデント、西へ』を書くまで

今日は「薩摩スチューデント」のお話をいたします。2007年に『薩摩スチューデント、西へ』という小説を書きました。もう今から20年近く前です。私の祖先は田安徳川家に仕えていた侍ですので、どちらかというと薩長の敵で、薩摩とは全然関係なかったのです。それなのにどうして薩摩スチューデントの話を書いたのかというと、たまたまその頃、日本航空が新しく鹿児島便を増便し、JALの広報誌に「薩摩スチューデントのことを書いてくれないか」と頼まれたのが、そもそもの始まりでした。

その頃、僕は薩摩スチューデントのことなんてこれっぽっちも知りませんでしたから、「何ですかそれは」と言ったのですが、どうしてだか私のところにそういう話が来ました(笑)。

何も知らなくては書けないので、急いで取り調べを始め、小文を書いたところ、光文社の編集者がそれを読み、「こんな数ページのものではなく、一つ大長編小説を書いてくれませんか」と言われたんです。大長編小説を書くのはすごく大変だから困ったなと思ったのですが、どこか心惹かれるものがあったので書き始めたのです。結果として私は、これを書いて薩摩スチューデントの歴史的な意義を知ることができ、大変有意義だったなと思います。

薩摩スチューデントとは何か、ということですが、ご案内のように、島津斉彬公というのは大変に開明的なお殿様で、近代的な工場、工場と言っても西洋からみればほんの工場の真似事程度ですが、それをいろいろと作って、いち早く明治に先駆けて文明開化を志向していたことが、よく知られています。

そういう中、薩摩藩が非常に偉かったなと私が思うのは、ただ外国人教師を呼んできて教えてもらえばいい、ということではなく、藩内の有為の青年を選りすぐって当時世界第一等国であったイギリスで学ばせようと考えたことです。

私は執筆にあたり実際に薩摩に行ってみなければいけないと思い、薩摩中を車で走り回って、どういう地勢のところであろうかと調べました。この小説は、着手してから完成まで6年ほどかかっていますが、この間、たびたび薩摩、またイギリスにも参りました。私はもともと文献学者なので、適当に書くことはできないんですね。文献で後づけられるところは極力文献を集め、そして文献の正しく示すところを小説にして、どうしても文献に出てこないところは想像で補う形で、書くことにしました。

ぐるぐると薩摩の山野を駆け巡った結果、私がわかったことは、「まあ、薩摩という国は何という貧しいところだろう」ということです。何しろ桜島がしょっちゅう噴火し、火山灰がどしどし降ってくるわけです。そして年中台風なんかも来る。それから夏は酷熱です。例えば越後のような豊かな水田が広がっていてお米がふんだんに作れるところではないわけですね。

第一、薩摩の国はほとんど山ばかりで、平地がほとんどありません。その平地には火山灰が桜島から降り積もり、火山灰台地になっているので水田は作れません。ですので、薩摩藩は表向きの石高は非常に多いですが、実際にはとても越後みたいな米どころのようにはいかないわけです。薩摩もはずれの坊津(ぼうのつ)あたりに行き、お婆さんとよもやま話をして、このあたりに電気が来たのはいつですかと聞いたら、昭和10年だと言っていました。

そのような辺陬の地であるということをデメリットとみるか、それともメリットとみるかということです。島津斉彬の偉かったのは、この本来デメリットである、辺陬の地で、豊かな土地でないということを、メリットに変えようとしたことです。もしお米ができないのならば、西洋の学術を学んで工業を興して工業立国にしようと考えました。当時諸大名あった中で、こう考えたのは薩摩藩の斉彬だけなのではないでしょうか。

有為の青年の英国渡航を企画

また薩摩は昔から密貿易をやっていたんですね。江戸から遥か遠くにあるということから、さすがに幕府も薩摩半島の向こうまではなかなか密偵の目も及ばなかったのではないかと思います。鑑真和上が着いた、坊津あたりから密貿易船が明・清に出ていたらしい。だから薩摩の男の中には外国人を見たことがある人がいたということです。

当時、そういう密貿易船は、上海や天津といったところに行くのでしょうけれど、そういうところは、当時すでに西洋列強が入り、様々な文物が入っていました。鑑真和上の上陸地点には唐人町もあり、密貿易船に乗って清(しん)国人もきていました。

「薩摩スチューデント」の渡航を企画したのは、五代友厚です。五代才助と言っておりましたが、この五代はしばらく前のNHKの朝ドラ「あさが来た」ではディーン・フジオカが演じていました。なかなかハンサムでかっこいいので皆憧れたかもしれませんが、実物は全然違います。この人は良くも悪くも大山師ですよ(笑)。明らかにはなっていないけれど、上海辺りへ密航していたに違いないと思われる節があります。

五代は斉彬の治世に、藩庁に「五代才助上申書」というものを出すんです。これに、いかにこれから薩摩藩が新しい時代に向かっていかなければいけないかを書いている。それには藩内有為の青少年を世界第一の文明国で、七つの海の覇者の英国に留学生として送り、そこで理数系を主に、軍事のことや工業などを学ばせて帰って来させる。つまり、今の言葉でいうとテクノクラートを養成するため世界第一の工業国のイギリスに若者を送るのが一番だ、と説くのです。だけど、これはそう簡単なことではありません。この「上申書」は面白くて、どうやってこの薩摩の青年たちをイギリスに送る費用を捻出するか、という方法も書いてあるんです。これを見ると、ああ、五代友厚というのは、本当に山師的才能が満々としているなと思うのです。

当時薩摩は蒸気船を持っておりました。それを大阪の堂島のほうへやりまして、そこで奄美大島が飢饉だから御救米を買い付けると言って、大阪の米蔵で売れ残った米をたくさん買い付けると言うんです。そして、船頭にも誰にも言わずに船出して、奄美大島には行かずに、途中から上海に向かわせて、そこでこの米を売り払うと言うのです。日本の米は大変質がいいので当時も高く売れたのだそうですね。

そこでお金が儲かったら、そのお金で上海でイギリス製の蒸気機関による製糖機を買い、これを船に乗せて帰り、この機械を琉球に置いてくる。当時、琉球では鍋の中に砂糖キビのしぼり汁を入れて煮るという原始的なスタイルで砂糖を作っていましたが、それを大規模なイギリス製の蒸気機関で盛大に作るわけです。そしてまた、それを上海に持っていって売り、今度は武器・弾薬を買ってくる。このようにいろいろと売買して儲かったお金で学生たちをイギリスに送ることは造作もない、と書くわけです。

実際にはそういうことはやりませんでした。ただ五代才助がそのような上申書を藩庁に提出した時、それを受け取った家老の小松帯刀(たてわき)という人が五代才助の後ろ盾になります。大久保利通などもたぶんそのバックにいたと思いますが、帯刀が藩論を操作し、結局、薩摩藩がお金を出し、19人の使節を送ることとなりました。

「薩摩スチューデント」の面々

さて、では「薩摩スチューデント」の面々はどのような人物だったでしょうか。まず、薩摩藩使節として筆頭の位置にいるのは新納刑部(にいろぎょうぶ)(久脩(ひさのぶ))という、大目付御軍役日勤視察という役目の藩の大立者ですね。それから松木弘安。維新後には寺島宗則という名で外交官として有名ですが、彼が御船奉行でした。それから五代才助。それから堀孝之という英語の通弁。この人は長崎の人で薩摩ではありませんが、天才的な通訳だったと言われています。この4人は留学生ではなく、諸般の事情を調査しに行く、あるいは外交をするための秘密使節として行くわけです。同時に新納刑部は留学生一党の取り締まりということでした。

では、実際送られる「スチューデント」です。町田民部(久成)は28歳で薩摩の開成所という学校の先生でした。それから村橋直衛、畠山丈之助、名越(なごや)平馬、鮫島誠蔵、田中静洲、中村博愛、森金之丞。これはのちに初代文部卿となる森有礼ですね。それから吉田巳二(みのじ)、市来(いちき)勘十郎、高見弥一、東郷愛之進、町田申四郎、町田清蔵、磯長彦輔。磯長彦輔は薩摩藩の天文方の若様で、当時まだ13歳の少年でした。一番年長でも高見弥一が31歳で、あとは10代、20代の青少年たちです。おそらく当時開成所にいた人たちがほとんどで、皆、秀才揃いだったと思います。つまり才覚ある若い者を選んで、千里の波濤を越えてイギリスへ送るということなのです。

その中で畠山丈之助と吉田巳二の2人は全く開明派ではなく尊王攘夷に凝り固まった人でした。それから村橋直衛と名越平馬の2人は、もともとは行く予定はなかったのですが、この村橋も島津の分家筋の、いわゆる藩閥の武士ですから全然開明的ではない。「除外者」が島津織之助と高橋要人と2人いて、この2人はどうしても行くのは嫌だと言って受け入れなかったので、村橋直衛と名越平馬を補欠として入れたという事情がありました。

畠山丈之助(畠山義成)という人も当番頭で枢要にいる武士で、全然外国のことなんか興味がない人でした。五代友厚の慧眼といいましょうか、偉かったところは、開明派の学生ばかりを選んだわけではないところです。開明派でない人、外国などに興味のない人も、わざわざ選んで送ったんです。

その理由は、この人たちが帰ってきた後、藩論を左右する時に、開明派の人ばかり送ったら、「あいつらは外国かぶれの連中だ」と言って誰も相手にしませんよ。けれど、もともと尊王攘夷を唱えている藩閥派の若い男たちを連れて行けば、彼らが自分たちのそういう凝り固まった旧弊な考え方は間違っていたと、考えを翻すことがあるだろうと。このことがこの挙の成否にかかっていると思ったのだろうと思います。そこが偉いんですね。

もう一人、実はこの他に町田猛彦というのがいて、町田民部の弟なんですが、この人は出発する串木野の近郊の羽島までは行ったのですが、なぜか実際には行かなかった。一説には発狂のためとも言われているし、突然死んでしまったためとも言われていますが、秘密になっていて全然わかりません。何しろこの挙そのものが公にするわけにはいかないから、暗々裏に処理されてしまったのではないかと思います。このように全部で20人行くはずのところが、町田猛彦が欠けたので15人の学生と4人の外交使節が、藩庁のお金で送られたということになります。

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