【その他】
【講演録】幕末薩摩の若者たちと私──薩摩スチューデントを追って
2025/02/13
「長州ファイブ」と「薩摩スチューデント」の違い
皆さん「長州ファイブ」はご存知ですね。伊藤博文や井上聞多(馨)など長州藩の若者5名が、薩摩スチューデントが渡航する2年前の1863年にロンドンに行きました。
長州ファイブと薩摩スチューデントはどこが一番違うかというと、長州ファイブは密航で本当にこっそり、外国船に乗って、全く奴隷のような境遇で行くのです。記録を見ると、乗ったのは粗末な船でトイレがないので、船から板が出ていて、そこに座って用を足すというんですね。伊藤博文はお腹を下し、命からがらそこで何度も下痢をしたなんていう、汚い記述が残っています。
しかし薩摩のほうは、これも密航は密航なんですが、そういう惨憺たる思いをして行ったのではまったくない。この薩摩一行のバックアップをしたのは、ジャーディン&マセソンです。当時の世界貿易を一手に掌握していた大資本ですね。そのジャーディン&マセソンの手下がトマス・グラバーです。このグラバーがオースタライエン号(Australian)という蒸気船を持っていた。
この船でグラバーが串木野の近くの貧しい漁港羽島まで長崎から迎えに来て香港まで行きます。そして香港にはいわゆる東洋航路を一手に独占していたP&O汽船会社の立派な蒸気船が就航しています。薩摩スチューデント一行は、全員この世界一流のP&O汽船会社の一等船客として行くんです。東洋航路はサウサンプトンから出て、ジブラルタルから地中海を通り、スエズ運河はまだできていませんでしたから、スエズ鉄道でアレキサンドリアからスエズまで行って、スエズで別の船に乗って、インド洋を通って、そしてマレー半島の沖を通って香港まで来るのです。
一等船客で行くということは非常にお金がかかる。香港からロンドンまで、今のお金にすると大体1人2500万円ぐらいかかったそうです。一流のホテルに泊まっているのと一緒です。それが20人分ですから5億円ぐらい。これを薩摩藩はポンと出した。
そのことにどういう意味があったか。そこが薩摩藩の偉かったところだと私は思うのです。長州の伊藤博文たちは食うや食わずでしたが、薩摩は悠々と、一等船客で毎日ごちそうを食べて行った。香港からイギリスまでの船路は、香港からシンガポール、それからペナン、セイロンのガル(ゴール)、そこからボンベイ、アデン、スエズ。スエズからは鉄道でアレキサンドリア、そこでまた別の船に乗ってマルタ、それからジブラルタル、そしてサウサンプトンですが、今申しました港は、すべてイギリス領です。
つまりこのスチューデントたちはすべてイギリス領の港々を辿りながら、ロンドンまで悠々とごちそうを食べながら行ったわけですね。そしてその行った先々の港で、いわば当時の最先端の文明というものを見ることができた。いきなりイギリスに連れて行かれたのでは目もくらむようなものですが、長い船路の間に少しずつ西洋の文明に実際触れ、西洋人とも付き合って、西洋のマナーや服装などを学びながらロンドンに着くというスタイルなんですね。そのために藩庁は今のお金で5億ものお金を惜しまず出した。これはやはり小松帯刀という人が大変偉かったのだろう。また殿様も、それだけの人物だったのだろうと思います。
様々な文献からわかってきたこと
私はできるだけ事実に基づいて描きたいと思いましたので、まずは極力文献を収集しました。実際、彼らがどういう船に乗っていたのかということがわからなければ、船の中のことを描けません。当時のことが描かれたP&O汽船会社の図録本には、船室の設計図だとかそういうのも全部出てくるので、そういうことを調べることで、現実的な情景としてこれを描くことができるようになる。
それから港です。私はこの仕事をやって驚いたのですが、当時イギリスはすでに香港まで海底電線を引いていました。香港は中国経営のために非常に枢要な都市です。そこで商売をする時に、例えば金の値がどのくらい上がったか下がったかといったことを、ロンドンと香港で逐一共有しなければいけない。そのためにはやはり電信線を引かなければということで、これが香港までもう届いていました。すると、香港であったことは、即日ロンドンでわかるわけです。
そんなことは当時の日本人には想像もつかないことです。江戸からお伊勢さんにお参りするのに、テクテク歩いて2週間。それが地球の裏側のイギリスまで即日に電信で連絡ができるということは驚天動地です。
さて、港々でスチューデントたちは降りて何をしたのか。それは大体わかるんです。一つ資料を紹介します。「畠山義成洋行日記」というもので、「畠山義成君初めて洋行の時の記」というのが正式な題名です。この畠山は非常に筆まめな人で、克明に日記を書いています。
それによると元治2年正月20日に出発をするわけです。この本は鹿児島県立図書館にあり、もともとはおそらく毛筆で書かれたのでしょうが、その本をペン書きで明治時代に誰かが引き写した転写本だけが残っています。ちょっと読んでみますと、「元治二年、乙丑正月二十日晴天、一つ、六ツ半時分刑部殿、お立合い御座なされ候ところ、ただちに立ち出、御同道にて…前へ横井町之着き候」。その次の○○というのは何だかよくわからないですが、「本田弥右衛門殿も同所○○暫時咄共之れ有り。楠公社之我々立ち候、一行参詣、夫れより伊集院町之暫時休息いたし候。妙園寺之参詣、武運を祈誓奉り、苗代川へ七ツ後に着致し候」。
万事がこの調子で書いてあり、読めないところも少しあるんですが、非常にまめに出発からロンドンでの暮らしまでが書かれています。これが私の執筆のための貴重な第一次資料となりました。
また、スチューデントの中に市来勘十郎というのがいます。これは松村淳蔵という偽名があります。当時、密航死罪となる大罪でしたから、あくまでも表向きのこの船出は「甑島(こしきじま)その他、大島諸所へ御手元御用の儀」ということで、藩庁には甑島方面に用があるので船出をするという届が出ています。でも、それは全くの嘘で、実際には、行った人たちは脱藩のような形になっているんです。それが誰かはわかっては困るというので、全員偽名を名乗る。新納刑部は石垣鋭之助、松木弘安は出水泉蔵、五代才助は関研蔵、堀孝之は高木政次という具合です。
でも、その中で、市来勘十郎は明治維新後もずっと松村淳蔵を正式な名前として名乗っています。それから薩摩藩の天文方を務めていた名家の磯長彦輔という人は、長沢鼎という偽名を名乗り、彼も明治維新後はこの長沢鼎を本名として使っています。
この市来勘十郎(松村淳蔵)もある程度日記を残していて、それは『薩藩海軍史』という分厚い本に載っていて、どなたも読むことができます。それから五代友厚については『五代友厚伝記資料』という本があり、五代が藩庁に提出した書類などがそこに記録されて残っています。それから『吉田清成関係文書』というものがあります。吉田清成(巳二)という人は後に外交官として活躍するので正式の文書が残っているわけです。
さらに『鮫島尚信在欧外交書簡録』という本が出ています。この鮫島尚信(誠蔵)という人は明治時代最大の外交官だったのではないかと思います。この人は語学の天才で、正式な外交官になりますからその人の在外外交文書が残って公開されています。そのように正式の文書として残っているものもあるので、こういうものをまず読むことが第一の研究でした。それにしても畠山義成が本当に詳しく書き残しておいてくれたのは誠に有り難かったです。
その他、町田清蔵というのは町田兄弟の四男だと思いますが、明治時代には財部実行と名乗り、それなりの活躍をし、後に史談会で、薩摩スチューデントの渡航の昔話を語っています。面白いんですが、こういう思い出話はずいぶん不正確なので、そのあたりはいろいろな資料を突き合わせて、どこまでが真実かを取り調べなければなりません。
当時の地図から見えてくる港の姿
さて、実際に彼らが立ち寄った港々がどういうところであったのか。シンガポールや香港などは、「ピクトリアル香港」のような図録本に、19世紀初頭の様子などの写真や解説が載っているので、どういう状況だったかはよくわかるのですが、その他の港についてはなかなかわからない。そこで、基本的に私がとった方法はどういうものかというと、一つは地図を収集することです。これは、日本にいたのではできません。私がとった方法は、ケンブリッジ大学に地図室というのがあるので、そこへ行って、港々の地図を調べてもらいました。
イギリスでは大英図書館とケンブリッジとオックスフォードの図書館は著作権図書館で、基本的に全ての著作物はそこに納入されることになっているので、どの町の地図もほとんど毎年のようにあるんです。ですから大体2、3年の違いで、1860年代のペナンやセイロン島のガルの地図を手に入れることできました。
その当時の地図というのは今の地図と違い、例えば島の近くの水深が書いてあったりするんです。そうするとどちらの方向から船がこの港に侵入したかが、水深を見ればわかるんですね。それから、地図の海のところの余白に、こちらの海上から見たこの島のスケッチが描いてあるんですよ。それから地図をよく見ると、ここはヤシ畑とか、荒れ地とか、いろいろなことが記号で入っている。
こういうものを見ますと、船がどの方向から、どういう風景を見ながら陸に接近していき、そして着いてからどういう風景が見えたか、大体想像がつきます。そういう基本的な調査が歴史小説では非常に大切で、どこまで本当に近いところに迫れるかということが死活問題です。
それから、スエズ運河の成り立ちをすべて書いた『スエズ』という本があるんですね。図版が豊富で、当時どのようになっていたかがよくわかる。またThe IllustratedLondon News という当時の有名な英字新聞の1863年2月21日号に、スエズ運河の工事現場の銅版画が出ております。こういうものも丹念に、イギリスの古書店などで探して見つけて買ってくるわけです。
実はアラビア半島のアデンは私の家とゆかりがあるのです。私の曾祖父は林譲作という人で、明治時代、大変優秀な海軍士官でした。築地に海軍兵学寮(後の兵学校)ができた時のごく初期の生徒で、水雷科の俊秀でした。そして、フランスに建艦を依頼していた軍艦厳島の受け取り士官として現地に行きました。ところがナポリの王様に謁見したりして、ごちそうを食べたら腸チフスになってしまい、帰国途中アデンで死んでしまうんです。当地で火葬にふしたので曾祖父はアデンに眠っています。
そのアデンはどのようであったか。アデンは辺境ですからなかなかわからないんです。ロンドンの大英博物館の前に古本屋さんがたくさんあり、そこにオリエンタルブックショップという、東洋関係のものばかり扱っている店があります。そのユダヤ人の主人がなかなか曲者で、「林さん、これどうですか」と、いろいろなものを出してくるので、ついつい彼の出してきたものを買ってしまう。
そのようにしてだんだん仲良くなりまして、何度か行っているうちに、「19世紀の終わり頃のアデンを知りたいんだけど、何か資料はありませんか」と聞いたら、奥から当時のアデンを撮った、鶏卵紙の生焼き付け写真を2枚持ってきて、1枚25ポンドで売ってくれました。
そんなふうに港町は一つ一つ、極力目に見えるような形で調べて、どこへ、どのように彼らが立ち寄ったかということを小説では書いています。このように資料の裏付けを取って書いているということをおわかりいただけると有り難いです。
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