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【講演録】諸文明の祝祭──井筒俊彦の生涯と心

2024/11/13

井筒の知的貢献はイスラーム研究を越えて遙か彼方にまで及ぶものです。彼の比較思想における仕事は、イスラーム思想と他の世界的な諸伝統との間に関係を見出し、人間が意味と理解に対して普遍的に行う探求に明るい光を当て際立たせます。多様な哲学的、宗教的なパースペクティヴに向き合うことで、井筒が私たちに示したことは、1つの文化、または伝統の研究はより広い人間的な経験に光を当てることができ、私たち皆を結びつける共通の糸を明らかにするということです。

井筒のアプローチの中心にあるものは諸宗教の研究における彼の共感の信条(doctrine)です。そして井筒は共感的な視点といったものを提唱し、学者たちに宗教テクストをそれ自身の概念的枠組みの内側から理解することを促しました。そうして彼は文化間の対話へのよりニュアンスに富む、敬意に満ちたアプローチへの道を整えたのです。

以上のこと*5を実際問題として現在の世界に関連付けると、共感がなければ異なる信仰を持つ人々の間に偏見と不信が高まり、それらは抑制されねば、敵意と[互いの間の]恐怖症につながります。このような共感の欠如は、政治や自民族中心主義(エスノセントリズム)など他の要素と結びつけば、例えばイスラーム嫌悪(Islamophobia)を引き起こします。

この[欠いてはならない]共感のレンズは種々多様な宗教的、文化的コミュニティーが共存するマレーシアのような文化多元的な社会においてはとりわけ重要です。共感的なアプローチが要請するものは単に許容のみならず、理解と慈悲の心(compassion)です。それらは調和のある、平和な社会を育てるのに無くてはならないものです。共感は私たちが他の宗教に、その信仰を告白する人々の視点に立って耳を傾け、学び、理解することを求めます。

不幸なことには、私たちが対峙しているのは、宗教の学者たちや日和見主義な政治家たちなどという、こっそり忍び寄り挑戦を仕かける人々であり、彼らが懐疑と不和の種を撒いているのです。その結果は、宗教を全否定し世俗主義の旗を代わりに打ち振るエリートたちのいくつものグループの出現に見て取れます。

アメリカ合衆国でもヨーロッパでも、これは、ことにムスリムたちのような自らの宗教の信仰実践を目に見える形で行う人々に対する、恐ろしくも狡猾な活動のうちに現れ、彼らがその宗教が定めた制約を遵守する権利を否定するのです。政治家たちは己れの国の少数派に向けられた差別や非道な行為を容赦してしまうことで、このような[世俗主義を押し付ける]機会を捉えるのです。

私の信ずるところでは、日本では仏教とキリスト教を共に研究することについては、対話のレヴェルと頻度が示すようにとても大きな共感がありますが、イスラームへのアプローチの場合には共感がいささか足りない憾みがあるようです。

このために私は貴学を讃えて、私をこの記念講演を行うべくお招きくださったことに深く感謝するものです。愚見ではありますが、もしも私たちが井筒が示した規範と貴い模範に誠実であり続けるとすれば、一方にムスリムがいて、もう一方に仏教徒とキリスト教徒がいる、その間(あいだ)にはより大きな対話があってしかるべきでしょう。

私の国マレーシアはちょうど今月初めに宗教指導者の国際会議の第1回目の会合を開催国として迎えたところです。その会議にはより大きな宗教の理解と文化間の対話を成し遂げるべく世界中から宗教家や知識人たちが参加しました。

井筒が唱えた、[対話の]探求に忠実であれば、共感はraḥmatan lil 'ālamīn(あらゆる被造物に慈悲を)という概念と、平和のメッセージのうちに命ぜられているようにイスラームにおいては自明のことなのです。クルアーンとスンナのうちに定められたように、社会的調和を促進し保持するべく、他の諸宗教に共感をもって接することはムスリムたるものの義務なのです。しかし、共感は相互に働くべきものです。

ちょうど、ムスリムにとって他の諸宗教を理解し、慈悲の心を持つことは不可欠なことであるように、仏教徒、キリスト教徒、ヒンドゥー、その他の宗教の信徒にとっても同様の共感をイスラームに持つことが必要なのです。

これゆえ、そういうアプローチの果実が実際に実を結ぶべきであるとすれば、宗教指導者たちには相互に共感を抱くというメッセージを広大な信仰の領域を横断して伝える義務が課せられます。挑戦的な課題に満ちた世界で理想を現実化することは、井筒の教えを立証するものとなりましょう。

共感の呼びかけは、大衆迎合主義(ポピュリズム)や極右の民族的または宗教的過激主義が優勢な世界では、ことに選挙で再選を求める政治家たちには、とても容易いものでも都合の良いものでもないアプローチかもしれません。私たちはこのようなことを世界中で、ことにヨーロッパとアメリカ合衆国で見ます。このために文化間の対話の必要性はこれまで以上に喫緊の課題となっております。

これに関しては井筒の『スーフィズムと老荘思想:比較哲学試論』(Sufism and Taoism: A Comparative Study of KeyPhilosophical Concepts[仁子寿晴訳、慶應義塾大学出版会、2019])はそのような探求と献身を良く例証するものとなっております。スーフィズムと老荘思想の形而上学的、かつ神秘主義的な思想のシステムを考察することで、井筒は歴史的なつながりを欠くのにもかかわらず、[2つの思想の間に]共有される特徴とパターンを見出したのです。この著作は歴史を超えた対話への秘められた可能性を明確に示すもので、比較哲学と比較神秘思想の研究へ向けて新しい扉を開いています。

比較宗教研究については、非難する人たちは[宗教間の]相違点を探す傾向がありましたし、また支持する人たちは共通点を求めたものです。後者のアプローチは共感をもってのみなし得るものです。『スーフィズムと老荘思想』の中でそのことを「共感的志向」(sympathetic intention)と呼んでいます。

井筒はイブン・アラビー(Ibn ‘Arabī 1165-1240)と道家の老子(Lao-tzu 生没年不詳)と荘子(Chuang-tzu 生没年不詳)の諸著作における認識論的な範型と存在論的構造を探求し、それらの間の深い類似性を明るみにしました。スーフィズムも老荘思想もともに絶対的人間(The Absolute Man)と完全人間(The Perfect Man)などの概念の上に基礎づけられており、そのことは異なる文化がそれぞれ独自の旅路を辿りながら形而上学的レヴェルでは[共通の]深遠な真理に達することが可能であることを示しています。この比較分析は人間の精神性の普遍的側面と、究極的現実の理解の、共有の探求に強い光を当てて明示しています。ではいったい、その「現実」(reality)とは何でしょうか?

まさにいま、この大切な時に、かの偉大な著作から引用するのも有益でしょう。

だが、イブン・アラビーによれば、その類の『現実』は語の真の意味での現実ではない。言い換えれば、そうしたものはありのままの〈在る〉(wujūd)でない。現象世界の現象した事物の実在感が、眠り、それらを夢に見る者にわからないのと同じく、この現象世界に生きる限り、〈在る〉の形而上的実在感はわからない*6

完全人間の概念については、井筒は次のように述べます。

同じ存在論的「包括性」がすべてのひとにおのずから備わるものの、すべてのひとが己れの「包括性」に同程度に気づくわけでない。己れの〈名〉と〈属性〉を神が〈意識〉する状態に極めて近い最高度の明晰さから、全くの混濁と事実上変わるところのない最低の明確さまで、さまざまな程度の違いをもって彼らはこれに気づく。最高度の明晰さにおいてのみ、ひとのこころは「磨かれた鏡」の役割を担う。最高度の明晰さをもって初めて、〈人間〉は完全人間としてありうる。これがこの問題全体の要点である*7

また井筒俊彦に讃辞を捧げるに際しては、この分断が進む世界においては文明の対話が焦眉の急であることに思いを致しましょう。いま、反啓蒙主義、頑迷、不寛容が盛んとなり、 それらは社会を分断し、世界の平和を損なうほどの脅威となっています。共感と[相互の]理解と尊敬を推し進めることで、私たちは分断を進行させる勢力に対抗して、種々多様な文化、宗教、国民の間に橋を架けることができるでしょう。

さらに知により啓発され共感に満ちた国際社会──それは我々が共有する人間性を認識するために目下の様々な相違を超えて視線を定めることができる──を育て上げる。そうすることで私たちは協力関係と相互の尊敬が広く行き渡る世界を創り出すことができるのです。この[私たちが提唱する]対話は私たちそれぞれの唯一無二のアイデンティティーを抹消するためのものでなく、それらを、豊かなで多様な、そして相互に結び合う人間の体験を作り上げる一部として讃えるためのものなのです。

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