【その他】
【講演録】わが『福澤伝』を語る
2024/03/21
福澤の好奇心
これに対して、福澤諭吉はどうしてアメリカに行ったかというと、好奇心を満たすためです。オランダ語をやったけど、横浜へ行ったら何の役にも立たず、英語をやらなければいけないと思った。そんな時に日本が初めてアメリカへ使節団を出す。普通だったらその当時、一介の中津藩士ですから同乗するのは無理です。英会話はたぶん全くできなかったと思う。でも、これは行かなければと思った。突き動かしたのは好奇心です。
勝海舟は刀を持っていった。いざとなったらアメリカで相手を切り倒して、自分も死ぬつもりでした。武士だから、本当に使うつもりでした。アメリカに行った時の勝海舟の写真は、膝に大刀を握っています。あれは大変重要なサポーターから「何かあったら、これはうちの家宝だから使え」ともらった、大切な刀だったんです。
一方、福澤さんはあちらでどんな写真を撮ったか。これは有名ですが、写真屋の娘さんと一緒に仲良く写真に写っています。帰りの船の中で皆にそれを見せて、「おまえはこんなことをやっていたのか」という話を自慢げに『福翁自伝』に書いていますね。これを見てもわかる通り、簡単に言うと自分のために行っているのです。自分がいろいろなことを身に付けたいということです。
ところが、行って驚いた。国家的な文明の進展については本で読んでいましたから、福澤さんは向こうへ行って機関車を見ても全然驚かなかった。でも、本に出ていないことがたくさんあった。それがアメリカの家庭生活であり、男と女の接し方でした。
一番驚いたのは、よく引用されますが、ワシントンの子孫の話です。もちろん福澤さんはワシントンが有名な大統領だと本で読んで知っていました。こんなに有名な大統領なのだから、子孫も大変重要な地位に就いていて、国民から仰がれているだろうと思ったのです。ところが、「ワシントンの子孫の方は今どこにいらっしゃいますか」と聞いたら、アメリカ人に「ワシントンの息子? そんなものは知らない」と言われたのです。偉い人の系譜なんかを気にしている人たちはいない。自分たちの生活が良くなり、周りの人々と厚情を結んで、サロンのような社交場所でも自身が堂々と、楽しく暮らすことが1つの大きな目的であって、肩書や爵位で暮らしているわけではないとわかった。
さらに驚いたのは、家に入ったら、昼間は会社で威張っていた人が、奥さんの命令で厨房に入って、大根とかを切っているわけです。この幅の広さは何だと驚いた。それで、何やら議会というものがある。議会は一般の人々の代表が政治に首を突っ込んで、税金の払い先の用途に文句をつける。これがちゃんと権利として存在するのです。
文明の気品に気づく
当時、日本では下のほうから貴族や大名にむけて「おまえたち、わしらが働いたものを召し上げて、無駄遣いをしているだろう」などと文句を言ったら、牢屋に入れられてしまいます。つまり、アメリカは自由なものだと。しかもただの自由なのではなくて、ジェントリーな自由だと。この気品こそが文明だと気付きました。これが身に付かない限りは、いくら工業を盛んにしていろいろな製品をたくさんつくっても、海外でばかにされる。
福澤は偉い殿様が海外の人たちと接することを危惧しました。ホテルに泊まっても、このホテルは自分の城だと思い込んで、トイレに行くにも日本式にお供の人を扉の前にずっと並べて、最初にいる人は刀をちゃんと持って、控えていた。通りかかる欧米の人たちはそれを眺めて、「ばかじゃないのか、あいつらは」と言った。だから、気品というものが日本人に備わらないと、全く意味がないことがわかった。
気品とは「上品」ということを言っているわけではないです。彼はこのように言い換えました。「私がここで言っている気品は、英語で言えばキャラクターなんだ」と。今でもキャラクターという言葉を使いますよね。でも、今のキャラクター、「個性」という意味ではなく、天に誓ってやましいことのない気風を持っていることがキャラクターだという意味です。
人格とよく言うではないですか。あの「格」とは何かというと、天に向かってやましいことはない暮らしをして、独立独歩で人に迷惑を掛けずに自分の力で生きていることです。そういう生活をしていることが、文明の生活だと。女の人をいじめたり、あるいは子どもたちに無理やりいろいろなことを押し付けたりするのではなく、気品を持つことが対等に付き合えるための1つの重要な要素だということに、彼は気が付くのです。だから、今の日本人がアメリカへ行ったら、きっとばかにされる。それでは、文明国として認められないとわかりました。
日本に帰ってきて、彼はいろいろなことをやります。最初は経済を動かそうとか、工業化を進めることに一生懸命になりました。でも、だんだんわかってきます。明治30年代になっても、彼が一番嫌いだった政治家たちが、鼻の下を伸ばして妾をたくさん置いたり、自分の奥さんをいじめたり、家に帰ると1人で威張り散らしている。あれは文明人ではないと。
もう1つ、もっと悪いのがお金の使い方です。袖の下を渡すとか、あるいは肩書や地位を表に出して、俺は何々会社の社長だということで人々を低頭させている、これもジェントリーではない。もう1ついけないのは、中国の例を引きますが、中国のように自由な学問や、自分のやりたいことができないような社会は、そのまま身分や職業が固定していて変化できない。いいにも悪いにも変化することが重要なのだと。もちろん修身や人間の生活の心得も変化せざるを得ないのです。
「独立自尊」の源
したがって、福澤さんは「風格ある個人」を教育することを、初等教育の任務と考えました。お願いだから、忠や孝だけを重んじるのはやめましょうね、ということです。例えば、親孝行というものは悪くはないです。子どもが親の恩を感じるのは、人間として当然です。でも、これが義務になってはいけない。親が子どもに押し付けてはいけません。2、3歳の子どもには、親は責任を持っていろいろなことを命じたり、教えたりするけれど、ある程度成長したら独立した人間として扱わなければいけない、と彼は言いました。
そういう道徳の新たな指標をつくるために、29カ条の『修身要領』をつくった。そして門下生がそれを地方の学校や村議会などに講演をして回ったのです。もう、相手は大学生じゃありませんから、三田を出て地方の諸学校にまで出向くしかない。一方の教育勅語は国が発していますから、どの小学校でも教室に貼ってある。でも、こちらは私学ですから、そんなことはやってくれません。鎌田栄吉や門野幾之進といった教授たちが、手弁当で、100回以上、地方を遊説したというのだから、すごいものです。各学校に行って講演をし、1つずつ皆に伝えていった。その結果が「独立自尊」という言葉、福澤さんが発した殺し文句がわれわれの頭の中に入った、1つの大きな源ではないでしょうか。
この家族的なもの、この福澤さんが伝えた考えの意味は非常に貴重なものだと思います。『修身要領』という福澤さんの最後の大仕事は、慶應を飛び出し、世界中のどんな人々を相手にしても堂々としていられる人格の育成でした。このためなら、三田を売り払ってもかまわないとまで言った。これは大変重要な、それこそ慶應的なキャラクターではないのか。これが、教育における気品ではないかと考えるようになりました。今日はその実感というか、福澤が伝えようとしたことが、まだ生きているということがこの会でわかったので、よかったなと思いました。慶應義塾はやっぱり塾なのです。
ずいぶん勝手な話をしたと、自分ながら反省しています。しかし伊藤塾長に聞いたところ、こういう無礼なことを言っても、我が慶應で卒業証書を剝奪された例は、いまだかつて1回もないそうなのです。だから安心してお話しできました(笑)。有り難うございました。
(本稿は、2024年1月10日に三田キャンパス西校舎ホールで行われた第189回福澤先生誕生記念会での記念講演をもとに構成したものです。)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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