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【講演録】わが『福澤伝』を語る

2024/03/21

『修身要領』と『教育勅語』

僕はやっとわかったのですが、福澤の一番すごいところは、その初等教育の国家指導に対しても、孤軍奮闘した事実だったのです。つまり、教育勅語に反対したということです。教育勅語が憎い敵だったのです。その意味は2つあります。今お話ししたように、初等教育についても制度的に私学がやりにくくなってしまったこと。次に、そのやり方が、悔しいけれど、福澤の教育論をじつに上手く利用していたことです。

『修身要領』は箇条書きになっていますが、何で箇条書きにしたかというと『教育勅語』に対抗したのですね。福澤さんは『学問のすゝめ』で、教育と学問をどう結び付けるかという新しいテーゼを明治5年に出した。あれを皆読んだのです。おそらく皇室も読んだのではないかと思うのですけれど、大ベストセラーになったために、新しい教育を入れ、儒教的な古い考え方を捨てましょう、という考え方が広まるインパクトになったのです。

しかし、明治20年代になると、世の中が西洋化していますので、儒教の教育方針が悪いと言っても、もはや国民には響かない。福澤さんは、『学問のすゝめ』のような成人向けの本を書いたのでは駄目だと気付きました。だから「要領」、つまり子どもにもわかる標語の形にしようとした。よく壁に貼ってある「今日も一日元気に」というような感じで覚えさせればいいのではないかと。それで作ったのが『修身要領』で、29条立てになっている。

一番驚くのは、博愛主義の先取りです。他のどんな国の人々が、どんな宗教や文化を持っているにしても、上下の差はないのだから皆仲良く受け入れましょうという、今で言えば共存の話を書いていることです。一方で、国の独立自尊を守るために敵国と戦うのは義務だとも書いてあります。現代人でも、ウンといえる内容ですよね。

一方の教育勅語ですが、この原本は、大震災の時に半分焼けて、修復された形で現存します。教育勅語はいかにも長そうに見えますが違います。「朕惟フニ 我カ皇祖皇宗……」という序文を当時の子どもたちが全部覚えさせられたのですが、これは原稿用紙で1枚にもなりませんから覚えられます。そしてその内容はというと、なんと、9割は『修身要領』と同じことが書いてあるのです。

明治天皇がお父さんお母さんを大切にしなさいと言う。それで、一家の一番重要な心得は、国のために奉仕することだとなる。でも、あとの9割ぐらいは、福澤さんと同じことが書いてあって、しかも短い。これが明治天皇の言葉であるとされ、これを覚えさせることが学問の始まりだとされました。

『学問のすゝめ』は初編を小幡篤次郎さんと書き、小冊子の形で続々と17編まで出たわけですから、全部読むには今でも長いなと思うぐらいです。そうではなく短くて、今で言えばキャッチワードを使ったことを教育勅語が先にやるのです。今読めば、多くの人が言うように、教育勅語は古くさくも国粋的でもない。福澤さんが書いたと言っても通用するぐらいなので、それを見て福澤さんはやられたと思ったのです。皆の頭に自然に入ってしまうと。

「孝」「忠」への抵抗

でも、ここで一番いけないことを福澤さんは発見しました。すでにお話ししたように、ここには恐ろしい言葉が2つ入っていて、それが嫌だった。それは親には孝行、国には忠誠を尽くすという、「孝」と「忠」です。これが儒教の一番の源で、この教育の基本は絶対に変わらない、永遠不変の殺し文句でした。『教育勅語』にはこの言葉が隠されていて、これに気が付かれないように読ませる非常に素晴らしい文です。井上毅と元田永孚という人が作ったんですけど、たぶん福澤の本なんかを見て、子どもにも読んでもらえるような文章のノウハウを学んだのでしょう。だから、軍人勅諭みたいに硬い言葉ではない。当時としてはすごく軟らかくて、しかも非常に短い。小学生でも記憶できるようなものをつくり上げた。

これを見て、学問や教育の世界の日本で将来の展望が、福澤の思う塾の理念からかけ離れていくことに気が付き、29カ条の『修身要領』をつくると決めたのが、福澤の最後の仕事になったと思うのです。ご本人は、これをやろうとして1回目の脳溢血で倒れ、信用のおける弟子たちに編纂させ、そこにキーワードとして「独立自尊」を掲げた。この言葉が出てくるのはこの『修身要領』がほぼ初めてでしょう。

だから、僕たちがよく知る独立自尊の言葉は、ひょっとすると福澤さんが意図しなかったものかもしれませんが、いい言葉を選びましたよ。独立が全てだと。ご飯を食べることから始めて、自分でやれと。そして、細かい家庭の中のことなどもきちんとやっていくことが重要で、その上に国というものが自然に成り立っていく。まずは家庭なのだと。この言葉が一番重要な問題だったと思います。だから、いろいろな人々の心に響いたのではないかと思うのです。

勝海舟の自負

お話ししたかったことがもう1つあります。1つの因縁が咸臨丸から始まっていたのではないかと僕は思います。福澤さんは江戸に出て来て、すぐに無理やり咸臨丸に乗ってアメリカへ行かせてもらいました。そこに、これも運命だと思いますが、勝海舟という最後まで仲がいいんだか、悪いんだかわからなかった重要な人が一緒に乗っていたわけですね。この2人が同じ船に乗ったということも、たぶん日本にとっては大変重要なことだったのではないかと思っています。

勝海舟はわかりやすいのです。彼は背中に幕府、ないしは日本を背負っていました。俺がやらずに、他の者はとてもできないという自負もあったでしょう。彼の認識では日本は相当危なかったのです。だからちゃんと世界に認められる国としての実力を持たないといけないと思っていた。頭の中は政治家で、日本をどうするかに一生懸命。自分や一般の人々のことはさておいても、日本の国の独立を外交的に維持することが重要だった。だから、まず海軍をつくった。その海軍が、力があることを示すために、外交使節を送り出す時に咸臨丸で無理やり、あとについて行ったわけですね。

咸臨丸ではほとんど何も仕事はしていないのですが、日本も海軍がちゃんとあるんだぞ、という意地ですよ。そして船の中では、誰が船長かでもめるわけです。アメリカの有名な海軍の士官が乗って、その人がほとんど指揮をとってしまって勝海舟は船に弱かったので、少なくとも行きは何の役にも立たなかった。

でも、1つだけ、彼は行きの航海でやったことがあります。それは、途中、荒れ狂う太平洋の真ん中にボートを出して、小笠原の父島に上陸しようとしたことです。なぜそんなことをしたのか。この話は普通はあまり重要とされていないのです。

しかし、裏を探ると大変重要な事情が見つかります。あの時小笠原には日本人は誰もいませんでしたが、各国からの移民団が植民地まがいの自治領を経営していたのです。アメリカは特に、これをアメリカの領土として認めてくれという陳情をペリーがしていました。それが日本の幕府にも伝わり、あそこを取られると大変なことになると気付きました。太平洋の要衝ですから、小笠原が他国になってしまったら困ると、急いで日本人の植民を開始しなければいけなくなりました。

だから、おまえは海軍の奉行なのだから、ミッションとして小笠原に上陸して、日本人が昔からいたという証拠を残してこいと、おそらく言われたのでしょう。だから、嵐の真っ最中に、船を降ろして自分で行こうとしたけど、「あんたは死ぬつもりか」と止められたんですね。

これは日本国に海軍があることを世界に示すためにも、何とか上陸を果たしたかった真意でしょう。プライベートな目的ではなく、ナショナルな目的として、彼はおそらくたくさんのものを背負ってアメリカへ行ったのです。

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