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【講演録】わが『福澤伝』を語る

2024/03/21

塾としての独立経営

この誕生記念会でも、最初に小さな幼稚舎生、横浜初等部生が合唱をしてくれました。あれは日本の教育に江戸時代まであった、非常に重要な特色の1つを思わせるものでした。いわば「家族的絆」です。僕が興味を持つ平田篤胤という国学者は、トータルで3千人ともいう、大変たくさんの弟子を抱えていました。教えたのは、インテリではなく町の人たちで、難しい国学も絵で図解して学ばせて、大変人気があったということです。

そして、平田篤胤の門人帳で一番若い弟子は2歳だったというのです。授業を始める前に、先生方は皆、こういう子どもたちをあやして面白い話を聞かせ、疲れて寝た頃を見計らって、大人たちに向けて話をする。そうやっているうちに、何となく体でいろいろなものが吸収されて、将来多方面の興味と知識を身につけた子どもたちが出る。言ってみればお母さんの役回りを果たすようなことが、平田塾の特色で、財源も自家出版する著作を販売することでした。福澤さんの塾もおそらくそういう感じがあったのだと思います。

たぶん明治時代に学校の中で赤ちゃんが見られるのは、慶應義塾ぐらいだったのではないかと思います。そういういわば家族主義の経済を基軸として、教育が立ち行くようにすること、独立して自営することが、世の中を独立自尊の世界として結合する大きな力だと、福澤さんがはっきりと言いました。

そのために彼は独立自尊の1つの秘訣を自ら実践しました。小銭をためろと。何でもいいから、少しでも貯金をしなさいと。当時、日本でも、なかなか一般の人たちが貯金をするようなことはなかったのですが、貯金を非常に強く勧めた。これが独立自尊の建前です。

大企業に行って大金を儲けて、あるいは株式相場で大当たりして、大金持ちになれ、大成功者になれ、と言いそうなものですが、福澤さんはそうは言いませんでした。小銭をつましく蓄えて、いざとなったらそれで家族を守りなさいと言った。その教えは、日本人がほんらい持っていた心得ですから、誰にも納得できたのです。

今、一般の日本人が自然に持つ処世訓も、同じではないですか。日本人の貯金額は世界で驚かれますよね。下手すると1億円持っているような人たちが、たくさんいます。アメリカ人は、ああいう貯金はしません。これは福澤さんが言ったことが、間接的にでも日本人の心に残っている哲学ではないかと思います。小さく稼ぐということです。

福澤桃介さんという、福澤諭吉の次女・房の入り婿になった人も、世間では相場成金と揶揄するのですが、福澤イズムがかなり浸透していた1人なんです。ある時、交詢社の講演でいいことを言いました。交詢社のお歴々が雑談で、「○○君は慶應大学から大きな商社に行って、今や課長を飛び越えて部長だよね。悔しいな、あんなばかだったやつがたくさん給料をもらって」みたいな話をしていたのです。それを聞いて、交詢社の皆に「おまえら何でそんなに小さなことを言っているんだ。大金を儲けたければ慶應に来てはいけない。俺は慶應で学ばなければ、もっと大金持ちになっていたはずなんだからな」と言ったそうです。

僕はこの発言を知り、慶應はやっぱり自主独立で自由な気質が伝承されていると感じました。僕は『福澤夢中伝』を書いた時、これを慶應の諸先輩が読んだら、金がない話ばかり書いてけしからん奴だと声を上げ、卒業取り消しになるのではないかと心配していたのですが、福澤桃介は、僕よりもっとひどいことを言っているので安心したのです(笑)。

ご存じの通り、桃介は株で大成功した人です。相場で大金を集めるというのは、福澤諭吉が一番嫌った蓄財法だったのです。自分で働いて、体を動かして、その対価として正当なお金を得ることが、自活の本当の姿なので、寝ていて稼ぐというのはとんでもない。しかも、入り婿がそんなことをやったので怒ったわけです。でも、その福澤桃介も、相場師を本意とはせず、すぐに発電や鉄道などの起業や投資という事業に転じて汗をかきます。彼はお義父さんからひどい目にも遭っていたのですが、家族のことを彼なりに大事にしている。後年に川上貞奴をパートナーにしても、妻の房さんと離婚しなかった。

文芸は人生の幸福を増す

福澤さんは最晩年に『修身要領』という教育訓の作成を提唱し、門下生に条文を編纂させましたが、その『修身要領』を読んでも、国家ですら家族の集合体として成立するべきだと明言させています。偶然ですが、この本を書くためにいろいろな資料を漁っていたときに、僕が古本屋さんでみつけたのが、この『修身要領』の掛け軸です。ほんとに、大金出しても手に入れたくなった。なぜならば、『修身要領』は29条から成っていますが、21条の内容に感動したからです。

「文芸の嗜みは、人の品性を高くし精神を娯(たのし)ましめ、之を大にすれば、社会の平和を助け人生の幸福を増すものなれば、亦是れ人間要務の一なりと知る可し」

お若いころは芝居小屋に出入りしたことがなく歌舞音曲にも関心がなかった福澤さんが、文芸が社会の平和と人生の幸福に資すると断言している。私は作家ですから、慶應を出ていてよかったと、心から思いましたよ(笑)。普通、諭吉ぐらいになると、君たちも文明の先頭に立って前進すべきだ、今で言えばAIをどんどんやれよ、くらいなことを条文に書きたいのではと思うのです。ところが、21条では文芸、芸術あるいは演芸、今で言えば娯楽の類いも平和と幸福に欠かせない重要な要素だと書いてある。しかも、この語を明治時代に使われたのには驚きですが、君たちは物質的豊かさでなく品性をアップさせ、心を広くさせることで幸福を得る、と書いた。この一言がいいですね、「人生の幸福を増す」と。

文芸を嗜むことが人生の幸せを導きますと言ったのは、明治時代ではすごいことだと思います。当然、政府からは嫌がられたでしょう。なぜなら、当時は日露戦争に向けて軍備を増強している最中でしたから、いかにして戦争に勝つかが目標で、国民一丸となって戦わなければいけない時代でした。そんな時に、君たち1人1人が心を豊かにし、幸せを増大させることはいいことだ。だから、芝居や芸術にも励みなさいと書いたら、間違いなく目をつけられるでしょうね。

官学のシステムに対抗する

じっさい、福澤さんは私学の古株として国から敵視された時期があります。福澤さんが一番困ったのは、東京大学ができて、大学は官吏というスペシャリストを養成するところだ、大学の目的は卒業証書を出すことと博士号を与えることだ、と位置付けられたことです。この機能を持つからこそ大学には意義があるという、現在につながる教育システムですよね。でも、福澤さんは博士でも何でもないし、当時の慶應で「あなたを博士に認めます」という証書を出したところで一般には通用しなかった。これを通用させたのは、まさに東大という官学が誕生した威力です。官学出には高級官僚という就職先が用意されたからです。大学は大変厳しい入学試験を始めるようになっていくわけです。

慶應義塾をはじめとする私塾も、それに対応しなければいけなくなり、海外から偉い先生を呼び、東大に対抗できる高等教育機関に脱皮せねばならなくなった。卒業証書を取るためだけの機関になってしまうなら、もう家族的な師弟関係で幼児の弟子なんかを入門させられません。大学で赤ん坊のオシメを干すようなことも無理です。でも、福澤さんは博士号を出すという教育の仕方をする人ではなかったから、慶應義塾という名前にもいまだに「塾」を残していると思うのです。塾という部分が本来は源であったと。

ですが、官立大学に対抗しようと海外から教授を呼び集めて大学を造ったはいいが、東大と違って官僚への就職口が閉ざされ、塾生も一気に減少します。例のモニも失われ、危機となります。慶應は福澤なしの新体制に移行せねばならなくなりました。

しかし、福澤諭吉は死ななかったし、福澤の家族主義も失われなかった。新体制へ移行する中で、家族主義は、例えば幼稚舎や、寄宿舎やら、学生自治やら、塾出身者の交詢社といった形で再結成されますから。

そこで福澤さんにも、最後で最大かもしれない仕事が残されました。『修身要領』を読んでみると、何でこんなものを書かせたのかということがよくわかります。あれが編纂されたのは明治30年代ですが、この頃、幼児教育までもががっちりと役所システムの中に入ってしまったのです。

さっきお話ししたのは高等教育の問題でした。学位を与えるということがそのまま職業に通じるシステムが出来上がったからです。私学が一番困ったのは、そういう証明書を出すことができなかった。

それまでは慶應が日本でもっとも機能する西洋文明の教育機関でした。福澤さんは自分が知っている企業に門下生を推薦して、入れてもらうか、あるいは役所でも優秀な新人は慶應の学生を集めるほかなく、各地の学校でも慶應の学生が教師に雇われていたのです。ところが官学が生まれて以来、そういう古いものを閉ざすような新しいシステムが出てきた。それは、簡単に言うと塾的な私学をつぶそう、慶應をつぶしてやれということだった。そして今度は、初等教育の国家による囲い込みです。

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