【その他】
【講演録】わが『福澤伝』を語る
2024/03/21
ご紹介いただきました荒俣と申します。団塊の世代で76になります。もう団塊の世代も長老になりまして、何か来し方を整理しなければいけないと思っていますが、慶應の理事・評議員でもある早川書房の社長、早川浩さんから、「福澤諭吉はなかなか難しくて、よくわからないところやわかり過ぎるところがあるので、福澤について小説的に書いてくれないか」と、とんでもないお題をいただきまして、4年間かけて執筆した小説が、ようやく昨年末に出版の運びとなりました(『福翁夢中伝』(上)(下)、早川書房)。おそらくその縁で、今日の会の講演に招いていただいたのかと思います。
一番感じるのは、この会(福澤先生誕生記念会)もそうなのですが、福澤さんの考え方が何かもう生物学的な意味で塾員の体に伝わっているのじゃないかということです。頭というよりも体で受け継いでいる。たとえば名刺交換会と誕生会がくっついて行われるところも、さすがはお若いころの口癖が「モニ(money のこと)がない」だった福澤さんの後裔たちらしく、合理的と思います。
「福澤式経済学」とは?
福澤さんの遺した言葉で何よりも私の印象に残っている言葉はこの「金がない」の一言なんです(笑)。何を読んでも、「金がない」というのは福澤さんの名台詞で、看板でありました。無理もないですよ。だって、1人で慶應義塾を造ったようなものですから。それまでは藩校とか幕府の昌平黌(昌平坂学問所)のような、ちゃんとスポンサーがいた学校だったんです。しかも、幕末当時、尊王攘夷の風が吹き荒れ、洋学を教えていたら切り殺される危険性もありました。それをたった1人で、十何人も生徒を集めて、飲み食いもさせ彼らに洋学を伝えようとしたのですから、お金がないのは当たり前です。中津藩の下級藩士が子どもを十何人育てるようなものです。
でも、ここがすごいところで、そういう塾を維持するために福澤さんは「福澤屋諭吉」という商人になりました。これも一石二鳥で福澤さんらしい福澤式経済学です。僕に言わせると、金がない主義というものを経済にこう生かすという、見本のようなものだと思うんです。その商売がまたすごくて、最初は翻訳家ですよ。
実は私も全く同じで、慶應大学の3年か4年ぐらいの時に、早川書房に翻訳家として雇われました。50年以上前の話です。何で学生なのにやらせてもらえたかというと、その当時あまりやる人がいなかったサイエンスフィクション(SF)を原文で愛読していたので、それなら翻訳もできるだろうと言われたんですね。今思うと、ただ好きで読んでいた本を翻訳すると、お金がもらえてほかの本も買えることがわかりました。
重要なのは、ちゃんと本屋の同業組合である株に入って、本屋さんになったことです。そうして自分で書いた本を売る。江戸時代、藩士の身分で本を書いても、作家は生かさず殺さずなのです。印税や原稿料なんか出ない。一晩どんちゃん騒ぎをやるだけで、お金は一切出ない。
じゃあ、誰がお金を取るかというと技術者です。本の場合、木版を彫る人、挿絵などのデザイナー。そしてもう1つは売る人(版元)です。こういう人たちは、本が売れればいくら、とちゃんとお金が入るのですが、作家には入りません。「好きで書いたのでしょう」というくらいで、著者は金銭の動く「職人」ではなかったのですが、福澤はこの著述家も職業にしようとした。作家では食えないので本屋になった。これはすごい。
今、まさにIT時代で同じようなことをやっていますね。今まで作家は本当に食えなかったのですが、自分で本を出版することができるようになりました。何のことはない、諭吉さんが苦肉の策でやったことは先駆的で、お金がない教育者の経営術の表れではないかと思います。
生活の場と密着した学問
また、学校の中で先生にお辞儀をしなくてもよかったのは慶應だけでした。目礼すればよかった。理由が、また福澤さんらしいのです。普通だったら、能書きを延々と説いたのでしょうけれど、福澤さんの説明の仕方は違いました。この忙しい世の中に、先生に会うたびにいちいちこんなことをやっていたら時間の無駄だと。時間を節約するためにお辞儀をしなくてよいと。これも粋な発想ですよ。
もっとすごいのは、三田に学生たちが通学するにあたり、住むところがない人も多かったので住めるようにした。つまり寄宿舎を建てたのです。もともと旧島原藩邸が寄宿舎として利用されていたのですが、学生の急増で手狭となり、明治33年に新寄宿舎が完成、その中に今の生協の前身にあたる自治的な消費組合も置かれます。『福澤夢中伝』を書いていて、この寄宿舎を1回見てみたくなりました。何百人も入る大きな寄宿舎を造って、先生も生徒も出入りをする。この三田の山の上が生活の場になったのです。その中で塾生たちが暮らせるようになったんですが、そこには先生方の奥さんもいらっしゃったし、子どももいました。
この三田の一角に大きい洗濯場ができまして、学生たちも自分が毎日着る運動着なども洗っていたのでしょう。信じられないことですが、この慶應の洗い場では、赤ちゃんのおしめが干されていた。つまり、全く日常家族生活の段階から教育がスタートしているということです。
高尚な知の問題はさておいても、食わなければいけません。これが独立自尊の「独立」の意味だと思います。自主独立なのです。食わなければいけないということが最重要なので、暮らしの隅々まで関心が行き届いたのです。
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荒俣 宏(あらまた ひろし)
作家・塾員