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【講演録】ヴィクトリア朝の岩倉使節団──幕末維新期における文化接触と〈知〉をめぐる旅

2024/02/21

高評価と辛口評価、日本の教育との対比

1872年9月17日に、使節団はロンドン市内の小学校を訪れました。彼らはここで女子児童を対象とした紡織の授業を見学しました。そして、数理光学などの視点を踏まえた理論が実技と並行して教えられている点を評価しています。10月17日には、マンチェスターで紡績・織物工場を視察し、木戸は工場内に併設された学校の役割や、就労・就学規則など学校の運営の仕方にも注目しました。19月25日にソルテア村を訪問し、久米は学校について次のように記しました。

「村内に小学校を建て、村民の児童は半日は工場で働き、半日は学校で授業を受けさせている。これは学業と仕事の技能を共に身につけさせるよい方法で(学知(タオリック)ト実験(プラチカル)ト、互ニ相進メル良法ニテ)、工場から給料を受ければ子どもにも役立つし、工場側にも利益がある。英国人は労働者を保護し、貧困者の救護に尽力することを一つの名誉としている。(…)学校で教える科目は小学校のふつうの学科で、男女とも知らなくてはならないことに限られ、高等な学科は教えない」。

学知(タオリック)と実験(プラチカル)は『実記』の中で久米が好んで用いたキーワードでした。ソルテア村のさまざまな施設の記述に続けて久米は、「これが職工市街の仕組みで、産業振興の方法として深い意義がある」と評価し、ソルテア見学に込めたイギリス側のメッセージを受けとめていました。

他方、久米は辛口の評価もしています。理念は立派でも教育内容がそれに見合ってないと判断した時の評価は手厳しいものでした。例えば、実験や実習などの理系教育で知られていたオーウェンズ・コレッジでは、化学の講義を聴講し、実験室も訪れていますが、『実記』の感想は「記スヘキコトナシ」とそっけないものでした。その要因の1つには、アメリカでの視察を経て目が肥えていたことも挙げられるでしょう。

訓練船に対する評価も同様です。一行は視察した船の内部や教育内容を細かく記録し、矯正用の訓練船が2艘あるのは、プロテスタント系とカトリック系の少年たちを一緒にすると喧嘩が起きるので、分けて収容するためだと把握していました。ですが、実態としては非行少年の矯正船で行われていた訓練は単純作業が中心で、体罰が横行し、数々の疾病も発生していました。リヴァプールの視察で見た海軍の訓練船(Conway)には「百事ミナ用意丁寧ナリ」と高評価でしたが、水夫の訓練船(Indefatigable)に対しては「船中ノ接遇甚タ麁(そ)ナリ」(つまり雑)、非行少年の就労船(Clarence, Akbar)になると「ミナ不規則ニテ、桅(き)上ノ昇降モ甚タ隙取レリ(動きもバラバラで、マストの登り降りももたついていた)」と厳しいものでした。

当時はどの訓練船の少年たちも、賓客が訪れると正装して桅(ほばしら、マスト)上で帽子を取って万歳を唱え、楽隊の演奏で歓迎し、下船時には敬礼で見送るのが通例でしたが、それも高くは評価されませんでした。制度そのものに関心を寄せたからこそ、詳しい記録を残したものの、非行少年の矯正施設として訓練船は感心するほどのレベルには達していないと考えたのでしょう。

このように岩倉使節団の教育視察は、イギリス側にお膳立てされたものでした。しかし、彼らは与えられた情報を鵜呑みにはせず、冷静な評価を行っていた点に注目したいと思います。

『実記』は、イギリスと日本の教育を随所で対比しました。例えば「英吉利国総説」の教育の概説では、歴史を遡るとイギリスでは学問が貴族や聖職者に独占されていた時代が長く、フランス語やラテン語を用いた高尚な学問は、民間には敷居が高かったと記し、続けて、「現在わが国で、知識階級は漢学や洋学を学んでいるけれども、それは一般民間の人々の理解が得にくく、庶民階層は書籍を高尚なものだと思い込み、学問の道に就こうという意欲を持たない状況とよく似ている」としています。久米はイギリスの教育を紹介しながら、明治初期の日本における知識の偏りも指摘していました。

富強の原動力を探る

ここで視野を少し広げ、岩倉使節団が教育だけではなく、イギリスの社会やシステム、階級などをどのように捉えていたかを検討したいと思います。『実記』は、1870年代初めの、イギリスが「富強」に至った背景を探り、そのためにさまざまな人々の生活の様子を日本の読者に伝え実感してもらおうとしました。富強の背景を知るためには、産業技術のノウハウや法律・政治などの制度だけではなく、それらを支える社会の枠組みを把握することも不可欠で、1870年代初めのイギリス社会の表裏両面を探索する必要があったわけです。『実記』には、イギリスの繁栄を象徴する言葉として、「営業力・・・」という表現が随所に登場します。これは現代の「営業」とは違い、国民全体の生産力、経済力の意味に近いものです。

久米は「見せられた」情報を主体的に総合し、イギリスが当時謳歌していたパワーの淵源を探ろうとしました。基幹産業はもとより、日常生活の衣食住に密着した品々の製造現場を訪れ、活況に圧倒されながらも、産業化の進展と繁栄はこの3、40年から4、50年ほどのものだと、『実記』の中で繰り返し述べています。西洋社会の「発展」の歴史が比較的浅いことは、『実記』が読者に対して発したメッセージでした。

岩倉使節団の労働環境や教育機会などへの眼差しは、あくまで産業や国家を運営する側の視点に立ったものでした。公害や貧困、劣悪な生活環境など、産業革命の負の側面にも注目しましたが、苦しむ民に寄り添う視点だったとは言えず、労働運動についても『実記』は言及していません。労働運動に関する情報提供をイギリス側が積極的に行わなかったこともありますが、日本側も情報開示に強い意欲は示さなかったようです。労働運動に関しては、日英間で情報をめぐる駆け引きはなかったと考えてよいでしょう。

イギリス側が「見せること」に積極的ではなかった側面は他にもありました。使節団は、イギリスの富強の原動力を探る過程で、「見たいもの」とイギリス側が「見せたくないもの」をめぐる駆け引きを経験しています。例えば、各地の工場で日本側が「これはどういうことですか」と質問しても、イギリス側が肝心な点をはぐらかそうとすることも多々ありました。つまり、富強の原動力には競争原理が働いており、情報提供についてイギリス側がシビアであることを、使節たちも肌で感じたようです。

もう1つ、イギリス側が見せたがらなかったのは、産業技術関連の情報だけではありませんでした。イギリス社会の最下層の人々の生活も、使節団に見せたくない不都合な実態だったのです。ですが、使節たちは裏面探索をあえて試みました。岩倉具視は明治政府派遣の使節団代表という立場上、気軽にどこへでも赴くことはできませんでしたが、木戸孝允と大久保利通は畠山義成を通訳に伴い、イギリス側のアレクサンダーの案内でイーストエンドの貧民窟、阿片窟、簡易宿泊所などをお忍びで訪れています。木戸は宿舎に戻ってから、「貧民窟といふよりも悪漢の巣で、其の状態は唯言語に絶すといふより外はない」と久米邦武に語りました。大久保は、「余は彼(あれ)を見て、世の中が浅猿(あさま)しくなった」と慨嘆して、2人とも強い不快感と失望を覚えた様子だったと言います。

諸国歴訪の道中、岩倉、木戸、大久保の3人は、日本の将来について頻繁に語り合い、文明開化に危険が伴うことも承知していましたが、実際に「文明の裏面」を目の当たりにして悲観的な気持ちになったようです。イギリスの先進性を印象づけ、一層優位に立とうと図っていたパークスにとって、ヴィクトリア朝社会の裏事情を探ろうとする視察は歓迎すべきものではなかったでしょう。だからこそ木戸たちは、ごく少人数のお忍びで行動し、社会の裏面を見ようとしたのです。これも使節の主体性を示す証しとして評価できるのではないかと思います。

上流階級との交流とパークスについての「発見」

使節団本隊はイギリス各地で、産業資本家、貴族や豪農など地元の名士の家に招かれてお茶や食事を共にしたり、場合によっては宿泊したりして生活様式に直接触れ、階級社会の実態に対する理解を深めました。これは、駆け足で歴訪した他のヨーロッパ諸国では得られなかった機会でした。生活空間に立ち入ることができたのは、イギリス滞在が長期化したことの副産物と言えるでしょう。彼らは地元の政財界の重鎮に会い、午餐会や晩餐会でたびたびスピーチも行いました。ちなみに『実記』では、スピーチを和訳せず、そのまま「スピーチ」と記しています。

岩倉使節団本隊と名士たちとの交流記録の中で頻繁に登場したのは、彼らの生活様式と狩猟に関する言及、大土地経営のあり方についての考察でした。上流階級の人々が、冬はロンドンの本宅で過ごして国務に尽力し、夏は所領地に戻って狩りを楽しみながら富を築く生活様式が、細部にわたって記されています。

パークスは折に触れ、狩猟見学の日程を組み、狩りの重要性を説きました。狩猟が上流階級にとっていかに重要かを、宿泊先のホテルで延々と説いた様子が、久米の回顧録に次のとおり記されています。「是の日、パークスは岩倉大使を離れて自ら主将気取つて万事を振舞」い、雷鳥料理を食す前に、野禽は熟成肉にしてから調理するのがよろしいと演述して食卓の主席に就いた、と。食後には彼が日本の士族の禄について見下した評価を下し、久米たちがそれは事実誤認であると指摘したようです。ウスター(Worcester) では有名な磁器工場(the Royal Porcelain Works)の視察より先に、到着早々、狩猟を見学しています。ちなみに、ここで言う狩猟とは、狩人の狩猟や殿様の鷹狩などと異なり、上流階級の人々が所領内でキツネやウサギ、野鳥などの狩りを行うもので、女性が参加することも多くありました。『実記』には「西洋ノ皇族貴族ハ、遊猟ヲ喜フ、婦人モ亦操銃ニ習フ」と西洋の上流階級の狩猟好きについて記しています。

パークスが折りに触れ狩猟の日程を組み、その重要性を説いたのは、岩倉具視とグランヴィル外相との会談と密接な関係がありました。11月22日と27日に行われた会談で、イギリス側は日本の内地旅行と関連づけて狩猟の重要性を取り上げています。日英の外交文書を繙くと、双方の駆け引きの様子も浮かび上がってきます。パークスには、西洋社会における狩猟の重要性を何回も印象づけ、日本における外国人の内地旅行の制約撤廃に動いてほしいという思惑が働いていたのでしょう。本隊の狩猟見学は不自然なほどに多く、使節たちに一種の刷り込みを図ろうとしていたとさえ感じさせます。

使節たちはこの思惑をどう理解したのでしょうか。日本国内では当時、狩猟を口実に外国人が居留地の外へ出てしまうケースが多発して問題化していました。岩倉は外相との会談の際、治外法権の廃止が前提だとして、内地旅行問題についての回答は避けました。会談で色よい返事をしない岩倉に対し、パークスが苛立った口調で日本政府の姿勢を難詰しています。ウスターで見学した狩猟について、『実記』には「此狩ハ、我犬追物ニ似タル主意ニテ」と記され、狩猟の模様を比較的くわしく記録していますが、それに続けて久米が紙幅を割いて考察したのは、大土地所有のあり方や貧富の格差、商工業を支えるシステムなどでした。『実記』は外交問題に触れないことを前提に編纂されたものですが、それを差し引いても、イギリス国内旅行を通して外交問題の改善を喚起したいパークスの思惑と、イギリス社会・経済・政治の構造を注視していた日本側の眼差しは、必ずしも合致しなかったと言えます。

イギリスの上流階級との交流は、もう1つ思わぬ副産物をもたらしました。それは、イギリス社会におけるパークスの立ち位置を使節団一行が目の当たりにしたことです。さすがに公的報告書である『実記』にはあからさまな記述はありませんが、使節団に随行していた林董(はやしただす)は、回顧録(『後は昔の記』)の中で次のように述べています。「英国公使パークスと云えば、日本にては飛ぶ鳥も落る勢にて、本国の待遇も嘸(さぞ)かしと思いたるに、外務省にて使節が外務大臣と談判の時パークスも列座したるが、僅に末席に就き大臣の問を待て発言する位にて、大臣は、時にミスター・パークスと呼び(サー・ハリー・パークスと云うが正当なり)、又はサー・ヘンリーと呼び、真正(しんせい)の位階姓名も大臣に知られざる位なれば、俗に云う楽屋が分りて大に器量を下げたり」と。34歳の若さで爵位を授けられ、サーの仲間入りを果たしていたパークスにとって、「ミスター・パークス」と呼ばれるのは屈辱的なことだったでしょう。

パークスは幕末維新期の日本では外交団の中心的存在として辣腕を揮うイギリス公使であり、日本人に対してだけでなく日本在住の外国人社会でも、強権発動し高圧的な態度をとることで知られていました。そのパークスが小さくなっている様子を見て、使節団は溜飲が下がる思いだったようです。イギリス外務省内でパークスが軽く扱われていたのは、彼自身の出自や経歴、また日本が当時の国際社会の中で占めていた位置を反映したものでしたが、パークスにとって、これは知られたくない不都合なことだったに違いありません。つまり、狩猟の重要性といったことをパークスが盛んに説いても、使節たちにどれほど説得力をもったのか。イギリス滞在を通して、階級社会に対する情報を蓄積し、理解を深めていた使節たちにとって、パークスに関わるこの「発見」が少なくともプラスに働く要素にならなかったことは間違いないでしょう。

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