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【講演録】ヴィクトリア朝の岩倉使節団──幕末維新期における文化接触と〈知〉をめぐる旅

2024/02/21

  • 太田 昭子(おおた あきこ)

    慶應義塾大学名誉教授

はじめに──問題の所在

本日は貴重な機会をいただき有り難うございます。今、ご紹介いただきました太田昭子と申します。私は長年、幕末維新期を中心に、近代日本の対外関係史研究に携わってまいりました。この分野は、ともすると日本側の視点に軸足を置きがちになりますが、日本と接した諸国側の背景の考察や、国際社会の枠組みを忘れないようにしながら、バランスの取れた見方を心がけてきたつもりです。

講演の骨子を簡潔にまとめると、時代背景は、日本では異文化接触の多様化を迎えた幕末維新期であり、他方、ヴィクトリア朝イギリスの全盛期、所謂「ヴィクトリアン・ヘイデイ(Victorian Heyday)」とも呼ばれている時代です。舞台となるのは、岩倉使節団の滞在したイギリス、そして主役はもちろん岩倉使節団ですが、その中でも久米邦武とイギリス駐日公使のパークスがキーパーソンになります。キーワードとなるのは、「教育」「情報の駆け引き」「情報と〈知〉の関係」になろうかと思います。

ここで背景として、徳川時代から幕末維新期の日本における異文化接触を3つの段階にまとめてみます。

①徳川時代は一部の有識者が文字主体の海外情報を入手していた時代でした。ですが、徳川幕府が人流・物流・情報の流れを「一括管理」するやり方は破綻していき、開国へとつながっていきました。そこで次の段階が、②1860年代となります。この年代には、限定的ではあるものの、日本人が海外渡航できるようになりました。つまり、海外に「行って知る」という生身の体験がそこに加わったのです。1860年代半ば以降、攘夷運動が次第に鎮静化すると、国内に持ち帰った異文化情報を伝達することが活発化していきました。

そうなると今度は、③取得した海外の情報が国内の幅広い層に伝えられ、人々が生活圏に「居ながらにして知る」ことが可能になりました。すると、どのような情報を、誰に、どのように伝え、役立てるかが大事になる。このようにして国民の啓蒙が模索され、その過程で教育の重要性が強く認識されるようになりました。

少し付け加えると、①が②や③に取って代わったというよりも、①を土台とし、その上に②や③が積み重なり、異文化の情報が更新、上書きされ、蓄積されていったと考えると良いでしょう。

例えば福澤諭吉は、蘭学を修め(①)、徳川幕府が派遣した遣外使節に随行し、1860年代に3回の海外渡航を経験(②)。そこで得た情報や知見をどのように人々に広く伝えるかを模索しました(③)。特に初期の活動において福澤は、外国文化などに馴染みのない一般の子どもが世界を知り、視野を広げるためにどうすればよいかを模索し、小学校の地理教科書などを刊行しています。

私が教育に注目するのは、幕末維新期に海外渡航した日本人が、民の啓蒙という使命を強く意識し、人材育成における教育の役割に注目していたからです。また同時に、彼らが訪れた諸外国でも、教育が重要な役割を担っていたからでもあります。

1860年代から70年代は、幕末維新期の日本だけでなく、世界各国で政治や社会が大きく変化し、異文化接触の形態が多様化した時期に当たります。本日は、岩倉使節団本隊の教育視察の旅を通して見えてくる異文化接触について、日本側、イギリス側の双方からご紹介したいと思います。

岩倉使節団の紹介

岩倉使節団は1871年12月23日(明治4年11月12日)に横浜を出港し、アメリカ合衆国を皮切りにヨーロッパを歴訪して1873年9月13日に帰国した明治政府派遣の使節団です。特命全権大使の岩倉具視に、4名の副使(木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳)がおり、使節が46名、随行18名、留学生43名の大所帯でした。1860年代に幕府が派遣した遣外使節団に比べ、規模も歴訪国の数も群を抜いており、その後もこれに匹敵する政府使節団が派遣されることはありませんでした。

当初は小規模な使節団が約10カ月の西回りルートをとる計画でしたが、実際には出発時107名の東回りルートに変更され、諸般の事情で旅は1年10カ月に及びました。アメリカでは、大雪の影響や条約改正交渉の失敗により滞在が大幅に延び、この間、各省派遣の理事官と随行は、岩倉らとは別行動をとり、別働隊として各国への視察に出発していきました。本日の講演では、岩倉具視ら大使一行の中心メンバーを本隊、各省派遣の理事官らを別働隊と呼びます。

岩倉使節団には主に3つの目的がありました。1、条約加盟国を歴訪し、元首に国書を奉呈し聘問の礼を修める。2、条約改正の予備交渉を行う。3、廃藩置県後の内政整備のため、欧米諸国の制度・文物の情報を収集し、長所を採って日本の近代化を進める。3番目の目的が本日の話に大きく関わるのですが、これを文章化したのが、別働隊が編纂した『理事功程』など各省の報告書と、その集大成の『特命全権大使米欧回覧実記』(以下『実記』)です。

使節団本隊の収集した情報をまとめた刊行物のうち、『理事功程』は別働隊が帰国後直ちに報告書作成に着手し、随時刊行されました。一方『実記』は、使節団本隊の収集した情報をまとめるのに少し時間をかけ、帰国から5年後の1878年に一括して刊行されています。

『実記』は、権少外史(ごんしょうがいし)として岩倉具視に随行した久米邦武が中心となって編纂にあたり、日本出発から帰国時までの岩倉の足取りを記した日録形式の部分と、「総論」や「総説」の巻、日録に一字下げで長文の考察などを随所に織り交ぜた構成となっています。5編5冊全100巻のうち、アメリカが20巻、イギリスも20巻に及び、英米で4割を占めました。多数の銅版画が掲載され、『実記』は報告書の域を超えた文化史的価値を持っています。

久米邦武を権少外史に推挙したのは、同郷の大隈重信でした。外国語の運用能力に優れていた福澤や新島襄とは異なり、儒学者だった久米は外国語に堪能なわけではなく、情報収集活動は、本隊のチームワークによって成り立っていました。本隊メンバーや留学生などが手分けして収集した情報に、別働隊の情報を加えて整理し、理解を深めた上で、久米が『実記』にまとめ上げたのです。『実記』における考察や分析は、久米の見解とみなして差し支えありません。

使節団本隊のイギリス滞在とヴィクトリア朝社会

使節団本隊は1972年8月6日にアメリカを出発し、8月17日にイギリスに到着しました。ですが、ヴィクトリア女王は避暑のためにスコットランドに滞在中で、本隊は女王のロンドン帰還を待つことになりました。この間、岩倉たちは条約改正問題をめぐり、グランヴィル外相らと会談を行う傍ら、イギリス各地をめぐって行政機関などさまざまな施設を見学し、産業資本家たちと積極的に交流しました。12月5日に、ウインザー城でようやく女王謁見が実現したものの、イギリス側主催の午餐会には女王も外相も出席しないなど、王室や政府要人たちの姿勢は温かいものではなかったようです。一方、使節たちは、地方の訪問先では産業資本家や貴族など、地元の名士たちに厚遇され、イギリスへの理解を深めました。そして、到着から約4カ月後の12月16日に、3番目の訪問国フランスに向けて出発しました。

岩倉使節団本隊は時に別行動もとり、広範囲にわたりイギリスの諸相を辿りました。その中で、教育機関の視察はイギリスに限らず使節団の視察先の中で重要な項目になっていました。彼らは歴訪国各地で、学校、博物館や美術館、孤児院、障害者の教育施設など幅広く訪問しています。ですが、イギリスで訪れた教育機関は特殊なものが多く、普通の教育機関が極端に少なかったのが特徴です。一般的な小・中学校の訪問を中心としたアメリカなどとはその点で大きく異なっていました。これに踏み込んだ研究はあまり見出せず、この領域を掘り下げたのが私の研究です。

ヴィクトリア女王の治世は1837年から1901年と長く、19世紀半ばにイギリスは世界の先端をいく近代産業国家として繁栄していました。ですが、このヴィクトリア朝社会は表と裏の格差が大きい社会でもありました。〈表の顔〉は、産業革命が進展し、産業資本家が台頭するとともに、政治的にも安定した社会でした。大英帝国が拡大し、19世紀後半には、国際金融の中心にもなっていました。19世紀半ばからは、工場の大量生産や交通網の発達などにより、大衆消費の機運が高まり、新しい生活様式につながりました。デパートが誕生したのもこの頃です。鉄道網の発達にともない、行楽地や郊外(suburbia)が誕生したのもこの時代でした。

それに対する〈裏の顔〉として格差の顕在化があります。貧困とスラム、犯罪や売春、工場での過酷な労働、公害問題。社会的弱者の疲弊による国家の「基礎体力」や国際的な競争力の低下の中で、アメリカやドイツの追い上げを脅威に感じるようになっていきました。

ヴィクトリア朝の繁栄を支える、3つの代表的な倫理観がありますが、これらにも表と裏の顔があります。1つ目の「Self-Help(自助の精神)」は、裏を返せば自助努力が足りずに落ちこぼれるのは自己責任であるという考え方で、弱者を切り捨てる要素があったのは否めません。2つ目の「Philanthropy(慈善、博愛の精神)」には、恵まれた「上」の者が恵まれない「下」の者に手を差し伸べるというニュアンスがあり、これも上下関係を含む考え方でした。3つ目の「Respectability(尊敬に値する)」は、次第にお体裁主義という含意に変容していき、「Snobbery(紳士気取り)」のような意味になっていきました。ヴィクトリア朝社会を支えていた社会的構造とは、このような階級社会でした。

産業革命の進展とともに、その担い手という自負を強めていった産業資本家たちは、自分たちの声を反映できる政治参加の権利を求めるようになりました。旧来、上流階級が享受していた土地や資産の所有、生活様式などを産業資本家たち中流階級が追求するようになると、それと連動して、19世紀半ばに「第2次パブリックスクールブーム」が興隆しました。19世紀の「パブリックスクール」とは公立校ではなく、名門私立校を指します。成り上がりとみなされるのを嫌った産業資本家たちが、子息をこぞってパブリックスクールで学ばせようとしたのです。

一方、一部の労働者たちには娯楽や大衆消費、レジャーなどを楽しむゆとりも生まれてきました。技能があれば、社会の最下層であるアンダークラスへの転落の危機は回避でき、収入増も見込めることから、教育機会の拡充にも次第に目が向けられるようになっていきました。1860年代以降、イギリス各地で労働運動が活発化し、岩倉使節団訪英前年の1871年には、労働組合が法的に承認されました。ただし、組織的な労働運動が軌道に乗り、政治的発言力を増したのは、使節団の訪英後のことでした。1872年当時はまだ格差が大きく、社会の最下層の人々と上流階級の生活には雲泥の差がありました。生活環境だけではなく教育機会や就業にも個人の能力では超えられない格差が厳然と存在していました。

教育の面では、エリート教育と民衆教育がはっきり分かれた形で存在していたのがヴィクトリア朝時代です。エリート教育は、第2次パブリックスクールブームに代表される教育熱の高まりによって、Respectable Gentleman の養成を目指す教育が充実していきました。他方、民衆教育は大きな転換点を迎えてはいたものの、初等教育は整備途上にあり、政府も教育への関与には及び腰でした。イギリスの公教育整備は遅く、小学校の義務教育化が定められたのは1876年でした。これが日本との大きな相違点です。

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