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【講演録】ヴィクトリア朝の岩倉使節団──幕末維新期における文化接触と〈知〉をめぐる旅

2024/02/21

日程策定の権限とパークスの果たした役割

岩倉使節団が視察したのは、一般的な学校と趣を異にするユニークなラインナップでした。イギリス事情によほど精通していない限り、外国人の目にはとまりにくい学校が多かったのです。日本側は、寺島宗則が駐英公使に着任して間もなく、また、副使の木戸孝允も教育問題には熱心に取り組んでいたものの、イギリスの事情に詳しかったわけではありません。そう考えると、使節団の視察先はイギリス側が選んだと考えるのが自然なように思います。

外交文書などを繙くと、色々なことが浮かび上がってきます。例えば、当時日本におけるキリスト教禁教と外国人の内地旅行の制約は大きな外交問題でした。しかし使節団本隊の滞在中にこれらを解決するのは望み薄とイギリス政府・外務省は感じたようで、一時帰国中のパークスらに本隊のアテンドを任せた経緯が記されています。こうして本隊の迎接全般と日程の立案を取り仕切ったのはパークス駐日公使と武官のアレクサンダーで、通訳のアストンが補佐しました。イギリス政府の意向を踏まえたパークスの指示記録書なども残されています。

パークスは所謂たたき上げの外交官でした。幼い頃に両親を亡くし、後見人も亡くなったため、1841年に13歳でマカオに渡り、働きながら中国語を学びました。15歳でイギリス領事館に正式採用され、その後、抜群の語学力を備えた能吏として頭角を現します。厦門(アモイ)領事、広東領事、上海領事などを歴任し、1865年に日本の駐箚(ちゅうさつ)イギリス公使に着任しました。幕末維新期におけるパークスの活躍は周知のとおりです。パークスは岩倉使節団のアテンド後、1873年春に再び日本に帰任しました。1883年には清国の駐箚イギリス公使に転じ、1885年に病のため北京でその生涯を閉じています。

パークスは生涯で2回叙勲を受けています。最初は1862年5月、上海領事だった彼は34歳でバス勲章2等(KCB)を授けられ、ナイトの称号を与えられました。それまでミスター・パークスと呼ばれていた彼は、サー・ハリー(Sir Harry)と呼ばれるようになりました。イギリスでは現在でも、サーの称号を与えられると、姓ではなくファーストネームに「サー」を付けて呼ばれます。2回目の叙勲は1881年、53歳の時で、聖マイケル・聖ジョージ勲章(GCMG)を与えられました。

19世紀半ばのイギリス外務省は、外交部門と領事部門が明確に分かれていました。外交部門所属の外交官は主に名家出身で、名門校を出ており、資産もありました。任地はイギリスと密接な関係があり住みやすいヨーロッパ諸国で、名門同士のネットワークを駆使し、外交を展開していました。これに対して領事部門には現地の言葉を操り、情報収集できる有能な人材が所属していましたが、傍系と位置づけられ、彼らがいかに現地の事情に精通した能吏であっても、領事部門から本流の外交部門に移り昇進できたのはごく少数でした。その例外的存在だったのがパークスであり、前任者のオールコックだったのです。サーの称号は1代限りのものでしたが、叙勲と公使拝命は外交官としての功績が認められた実力の証として、パークスの自負の拠り所となっていました。

このようにして破格の昇進を遂げたパークスは、イギリス公使館の代表として、幕末から明治初期の日本では押しも押されもせぬ存在でした。ですが、サーの仲間入りを果たしていたとは言え、本国外務省という組織の中で、彼はあくまで領事部門出身であり、高い身分も学歴も強力な縁故もない、弱小に近い立場にありました。いかに有能と認められても、出自や経歴の違いによる厳然たる壁の存在を、パークスが思い知らされることは少なくありませんでした。日英両国の関係者のパークス評には、辣腕・有能という高評価と並んで短気、癇癪持ち、恫喝、高圧的などのネガティブな言葉も並んでいます。そこには、彼の性分だけではなく、鬱屈した思いの裏返しという要素があったのも見逃せないでしょう。

教育機関選定の背景

パークスたちが中心となり選定した、使節団本隊の教育視察の具体例を紹介しましょう。まず彼らが視察しなかったところとして2つの例が挙げられます。1つは、オックスフォードやケンブリッジのような有名な高等教育機関や名門校です。これは当時のイギリスの高等教育やアカデミズムの保守性とも関わっています。例えばオックスフォードやケンブリッジで重視されていたのは、法学や医学、古典学、神学などで、日本が近代化のために必要な分野は、やや傍系に置かれていました。所謂エリートを対象とした高等教育機関は、敷居が高い上に日本に役立つ要素が多くないとパークスは考えたのでしょう。もう1つは一般的な初等・中等学校でした。先ほど述べたように、イギリスでは初等教育の整備が遅く、国民皆学の精神が希薄だったことも関係していると思います。

では、使節団本隊は何を見たのか、ここではいくつかのグループに絞ってお話しします。

まずはクライスツ・ホスピタル校です。これは病院や医学部ではありません。所謂パブリックスクール系の私立校です。この学校やセント・ポール大聖堂、イングランド銀行、ギルドホール(ロンドン市庁舎)などをロンドン市長が自ら案内し、市長主催の午餐会には、日銀総裁に当たるイングランド銀行の総裁も同席しました。

クライスツ・ホスピタル校は、現在でも少し特殊な私学としてイギリス人に知られています。この学校は1552年に当時の国王エドワード6世がロンドン市長に働きかけ、向学心のある貧しい家庭の子どもたちのために、ロンドン東部に設立した全寮制の慈善学校でした。パブリックスクール本来の建学の理念は「Open to the Public」。つまり民に門戸を開く慈善の精神でしたが、その後、パブリックスクールの多くがエリート志向を次第に強めていく中、クライスツ・ホスピタル校はこの理念を守り続けて、1870年代も多数の慈善家の寄付によって維持されていました。

また、クライスツ・ホスピタル校は、ロンドン市(City)との絆が強く、市の行事ではクライスツ・ホスピタル校のブラスバンドが演奏するのが慣例になっており、地域社会と密接な結びつきのある学校という意味でも独特な存在でした。私学でありながら地方自治体との連携を保つ姿勢は、エリート志向が強く、地域社会に対しては閉鎖的な名門パブリックスクールよりも日本の参考になるとイギリス側は考えたようです。ロンドン市長が自ら案内していることからも、この視察に対するロンドン市側の働きかけもあったことが窺われます。

高等教育機関の訪問先に選ばれたのは、オーウェンズ・コレッジとスコットランドのエディンバラ大学でした。オーウェンズ・コレッジはマンチェスター大学の前身で、理系教育に重点を置いており、実験や実習を積極的に行っていました。スコットランドはイングランドとは別個の教育システムをとっており、日本とも人的交流があって友好的な土地柄でした。この2つが選ばれたのも、やはり名門パブリックスクールよりも日本の将来に有用な条件が整っていると判断されたからだと思います。

使節団はさらにソルテア村というモデル・ヴィレッジも訪問しました。先ほど、国家や地方行政レベルでの教育整備が途上にあったと述べましたが、これは見方を変えれば、1870年代初頭には学校経営に携わる産業資本家の裁量が、教育現場に反映され得る余地がかなり残されていたことを意味します。「慈善」の精神に富み、労働者の生活環境に配慮した産業資本家たちの経営する学校の中でも特筆すべき存在が、ソルテア村とその小学校でした。ちなみに、ソルテア村は2001年にユネスコの世界遺産に登録されています。

ソルテアは、ヨークシャーのブラッドフォードでアルパカ紡織工場を経営していたタイタス・ソルトが新たに作った工場村です。人口が急増し環境汚染のひどいブラッドフォードから1853年に工場を移転し、翌1854年から約14年かけて住宅、教会、学校、病院、養老施設などを計画的に整えて村を建設しました。使節団が訪れた男女別学制の小学校は1868年創立で、総生徒数は750名ほどでした。多くは紡績工場で働く合間に学校で授業を受ける就労児童でした。学校にはセントラル・ヒーティングやガス灯など、生徒の健康に配慮した設備が導入されており、当時の労働者階級の児童が通う学校としては画期的なものでした。

一部の産業資本家が工場村を建設する動きは、イギリスでは18世紀から始まり、19世紀半ばにはヨークシャーを中心に発展していました。中でもソルテアの環境や水準は群を抜いていました。村は1868年に一応完成していましたが、ソルトはその後も整備を続け、飲酒の悪影響を嫌って村でのパブの開業を禁止しました。その代わりに図書館や講堂を備えた文化施設として社交クラブをつくる他、皆が散歩できるような広大な公園も開設しています。ソルテアは盤石な経営基盤に支えられてできたもので、慈善の精神と先端の産業技術を合体させたものでした。パークスらが使節団に見せようとしたのは、単なる産業施設や就労児童用の学校というよりも、学校や病院、養老施設などを備えた工場を核とするコミュニティ、つまり産業資本家主導の新しいタウンプランニングのあり方だったのです。

アメリカでは初等中等教育の整備が全般的に進められ、使節団は滞米中、各地でかなり系統だった視察を行い、目が肥えていました。そのことをパークスも承知しており、イギリスにとって不利な状況を打開するために、産業資本家の経営する工場併設校やソルテア村のようなモデル・ヴィレッジに注目したのです。良心的な産業資本家の教育とまちづくりを示すことは、産業視察と教育視察において一石二鳥でした。パークスらはこの視察が、明治日本の殖産興業政策や教育政策、都市計画の立案に貢献し、中長期的には日英の通商にも役立つと考えたのです。

岩倉使節団の訪れた学校の中でもう1つ注目すべきものが訓練船(船学校)です。訓練船には海軍系のものと商船系のものがありました。後者はさらに、上流階級の子弟が士官候補生として訓練を受けるタイプの船から非行少年の矯正施設まで、多岐にわたっていました。使節たちはポーツマスで海軍の訓練船、リヴァプールで4艘、タイン川河口で1艘の訓練船を見学しました。またポーツマスでは、800人の「刑徒」がドックの建設現場で人造石材の製造に従事している様子も見学しています。当時のイギリスではドックの建設工事などでも懲役囚を働かせていました。

1872年当時のイギリスには訓練船や農場などで非行少年少女の矯正を行なう施設が55校ありました。使節団が見学したのは比較的刑の軽い少年犯罪者たちを収容していた施設です。非行少年少女の多くは社会の最下層に属していましたから、彼らを監獄送りにしても犯罪発生率は下がらず、根本的な解決策にはなりませんでした。そこで、彼らを生活環境から切り離し、規律正しい生活を身につけさせ、社会復帰に役立つ技能や知識を習得させることが、矯正施設の狙いでした。つまり少年犯罪対策として、産業の発達にも寄与できるような青少年の矯正施策が試みられていたのです。

訓練船の視察が旅程に組まれたのは、重要な造船業などと、非行少年の更生という社会政策を一体化したモデルを示すことが、近代日本にとって役立つとイギリス側が考えたからでした。そのほうが、わざわざ農場に出向くより旅程面でも効率的だったからでしょう。岩倉使節団は見学を通して、少年犯罪対策における法整備以外の選択肢の1つを示されたと言えます。パークスは、当時、岩倉使節団別働隊として司法制度の視察を行っていた佐々木高行の一行に対して、刑罰の制度だけでなく様々な種類の矯正施設を視察させるよう、部下に命じています。

使節団本隊の受けとめ方

イギリス側の思惑についてはお話ししたとおりですが、では日本側がそれをどう受けとめたのでしょうか。『実記』「英吉利国総説」などの視察の記述に多少不正確な箇所はあるものの、概ね妥当な理解に基づいていたと言えます。例えば当時のイギリスで高等教育を受ける機会に恵まれたのは、主として中流階級以上の子弟で、彼らの多くは全寮制の私立校からオックスフォードやケンブリッジ大学に進学していると指摘しました。名門校の多くが都市部から離れた田舎や田園地帯にあるのは、都会の刺激や贅沢から生徒を切り離すためで、彼らは親元を離れ寄宿舎に入り、質素で規律の厳しい生活を送っていたと記されています。

では、視察した教育機関に対する評価はどのようなものだったのでしょうか。彼らはクライスツ・ホスピタル校の財政基盤に関心を示し、校内を案内したロンドン市長にも色々と質問したようです。木戸孝允は校内のプールを見て、これはアメリカでは見なかったものだと記しました。岩倉使節団がアメリカで見学した教育機関とはひと味違う学校を、イギリス側が地域ぐるみで見せようとした狙いを、日本側も受けとめていたことがわかります。

岩倉使節団は大英博物館をはじめ、各種博物館、美術館、水族館、動物園、植物園、図書館などにも行き、人々が自分たちの生活圏に「居ながらにして知る」場を視察しました。大英博物館を見学した際、久米は『実記』に一字下げで論説を展開しています。博物館を見学すれば、その国の文化の由来が自然に感じとれるが、どの国も元をたどると急に発展した国などない。先人は自らの得た知識を後世に伝え、先覚者が後世の人々を刺激していくと次第に進歩するのであり、進歩とは古いものを捨てることではない。このように彼は述べました。

そして人の言行の優れた点を記録して伝えたり、「古今ノ進歩」の歴史を記して後世に伝えたり、博物館で視覚に訴え感動させたりすることを通して人々を学ばせることの重要性を説きました。こうした努力を怠って、何もせずに東西の違いは習性の違いのせいだとするのは無策であると戒めてもいます。博物館見学を通して、久米がこのような歴史観や教育観を展開したのは注目に値します。

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