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【講演録】戦争・立身・ジェンダー──明治日本の基礎過程

2023/07/27

女性の「立身」

これが第1次世界大戦後、産業構造が変化すると、次第に職住が分離する近代家族型の家族が増えていきます。ただし近年の研究では、第2次世界大戦後においても実際には専業主婦化はそれほど顕著ではないと言われています。高度経済成長期には女性が家庭に入り外で働かないスタイルが一般化したかというとそうでもないというわけです。職住が分離したからといって女性がすべて専業主婦になるわけではなく、女性が働き続けるのは当たり前という労働文化は、第2次世界大戦後に至るまで、かなり幅広くあったのではないか。一方、家庭におけるケア責任、つまり一家の食事を準備したり、洗濯や掃除をしたりというケア労働を担うのは女性だという性別役割分業の規範は強いという指摘が最近の研究にはあります(満薗勇『消費者をケアする女性たち』)。

こういう状況の中で、明治期の立身は男性を主語とする概念で、女性は基本的に入っていませんでした。しかし、女性の一部にも立身出世の欲求は存在し、同じ言葉で自らのキャリアを語る人は明治期に存在します。例えば『青鞜』の同人の中に岩野(旧姓・遠藤)清という人がいます。

岩野については、坂井博美さんのくわしい研究(『「愛の争闘」のジェンダー力学』)があります。彼女は地方で学校教員をやっていましたが、東京に戻る時に「生存競争場裡に立たなんとて再び都に帰りぬ」という言葉を使っています。これは自らの力量でもって積極的に競争の場に参加する意思があったということです。男性の立身出世と似通った言葉遣いで自分のキャリアを語ろうとしており、彼女は事務員を経て記者になり、書く人として身を立てていくキャリアを選びます。

こういうケースがある一方、立身出世という言葉で語られるあり方としてもう1つ、これは私自身の研究ですが、逓信省、後の郵政省であり現在は総務省の一部ですが、その中の郵便貯金を取り扱う貯金局という部署に女性の官僚、当時で言う官吏がいました。こうした人たちが立身、あるいは出世という形で語られている現象があります。

これを通して近代日本のジェンダー構造の一端を見ていきたいと思いますが、明治期の日本では原則的に、女性には現在の国家公務員に当たる官吏の資格がありませんでした。戦前の官吏の身分は上から勅任官、奏任官、判任官と3つに分かれており、勅任官は次官や局長級の偉い人、奏任官は今風に言うとキャリア官僚、判任官はノンキャリア官僚のようなイメージです。官吏の下に雇員・傭人がおり、雇員は主として事務職労働者、傭人は現業労働者に使われる言葉です。この人たちは官吏のように国家に対して特別の義務や身分保障があるわけではなく、現在で言えば非正規雇用の官庁職員に近い人たちで、雇員の中には女性がたくさんいました。

近代日本の官吏の登用システムの原型を決めたのは1893(明治26)年の文官任用令及文官試験規則ですが、これは20歳以上の男子に受験資格を限定しており、女子には受験資格がありません。ただ、例外として特別任用ポストというものがありました。特別任用とは、試験を経ずして公務員のポストに就くことができる職で、例えば官立学校の教員などは官吏にあたりますが、文官試験を受けて就任するわけではありません。したがって、官立学校の教師に女性が就くことは可能でした。例えば、東京音楽学校の音楽教師や女子高等師範学校の教員などは官立学校の教員ですから官吏です。さらにもう1つ、5年以上雇員を続けると、その部署限りの試験を経て官吏に登用できる規定がありました。

特別任用と5年以上雇員をやっている実績の組み合わせのような形で、一部の官庁では女性を官吏の枠に採り込んでいくことが行われました。これを最初にやったのが1906(明治39)年の逓信省貯金局です。なぜ逓信省貯金局が判任官のポストに女性を任用できたかと言うと、ここに特別任用のポストが最初からあったからです。逓信省は膨大な数の職員を抱えており、いちいち全員の試験採用をやるわけにはいきません。郵便局の事務職員などを全員文官試験で採用することは合理的ではないという判断があり、逓信省に限りそういうポストの採用がどんどん行われました。1906年に女性を採用したことについて、当時の貯金局局長で、終戦時に内閣情報局総裁を務めた下村宏が、新聞に「男子よりは給料が安いので、安い割合には役に立つ」と身も蓋もない説明をしています。現在の省庁なら即クビですが、当時はそういうジェンダー意識でした。

採用される人たちはだんだん増えていきますが、この人たちの主たる仕事はそろばんを使い貯金を計算することでした。全国各地で行われる郵便貯金の引き出しや払い込みの伝票が、中央の貯金局に紙で送られ、これを全部計算して合計額を出す作業をしていたのです。かなり競争的な環境なので、そろばんをはじく速さを競う珠算競技会があり、逓信省の大講堂にそろばん使いが集められ、大臣や次官が見ている中で100枚の伝票を何秒で計算するかといったことを競わされました。その中に、長期間勤続した人が見出されます。私が調べることができたのは、そろばんの達人と称された三木を美喜(みき)という人です。この人は旧姓清水と言いますが、史料の中に見つけた時に、結婚しているのだろうと思いました。三木という姓に、を美喜という名前を付けるとは考えにくいからです。つまり、結婚しているくらい長期勤続したのだと思い、この人を追いかけたところ、かなり詳しいことがわかりました。

三木(清水)さんは1904(明治37)年に雇員として採用されています。1911年に判任官に登用され、1932年に退職しているので、28年にわたり逓信省に勤めています。班長のポジションにまで出世し、男性の部下がいました。1932年の時点では同じ係の他の班長は男性でした。そういう状況で女性として出世している。ただ、その上には係長がおり、係長になった女性はいません。

彼女は回想記を残しています。それによると「当時我国はロシアと戦争中で、娘ながらも何か御国の為に働きたいと思い従軍看護婦を志願したところ、15歳という年齢制限で、希望は果たせませんでしたが、やはり何か御国の為にもと思い、丁度友人が勤めておりました貯金局ではそろばんを使っていると聞き、少なからずそろばんに興味を持っていたので早速入局させていただきました」(「珠算一筋」)とあります。日露戦争があり、彼女は末娘か何かであまり親から気を遣ってもらえず、自分の未来は自分で切り拓かなければならない状況にあったということですが、従軍看護婦になり、御国のために貢献して自分の道を切り拓きたいと思ったが、年齢制限でかなわず、貯金局が募集していたので、これも御国のためということで就職したと書いています。ここでも立身の契機が戦争であることに注目してもらいたいです。

彼女は同じ貯金局の判任官だった三木源太郎さんと職場結婚します。2人が同じようなキャリアで上がっていくのは非常に面白いのですが、やがて子どもが生まれます。長男、次男が生まれた時には、源太郎の母、を美喜さんにとっての姑が育児をしていました。三男が生まれた時には姑が高齢のため、このタイミングで退職することになったと三木さんは回想しています。夫も後に退職し、特定郵便局の局長になっています。当時3等郵便局ですが、特定郵便局はある種の家族経営なので小経営の家族になったのでしょう。

ここで注目したいのは、立身出世に女性が参入した場合のジェンダー非対称性のことです。1906年の女性の判任官登用はかなり大々的に報じられています。同年7月30日の『東京朝日新聞』には、「曰く那(あ)の子もとうとう出世しましたが其内には能い婿を捜して遣度(やりた)く存じます、久しく開化開化といふ事を聞いて居ましたが那の子が判任官になるとは夢にも知りませんでした」という家族のインタビュー記事が載っており、出世という概念がはっきりあります。しかし、男性が判任官になるのは出世ではありません。男性向けの立身出世雑誌『成功』を見ると、「普通の判任官となると(…)甚だつまらぬ者と云わねばならぬ、故に成る可く其位置を得て居る間に専心勉強して、他日に安心の資格をつくり置く事が肝要であると信ずる」と書いてあります。判任官なんてつまらない仕事であり、上が決まっているから、資格試験の勉強でもして転職活動をしたほうがよいというわけです。

女性にとって出世と言われる出来事が、男性にとってはまったく出世ではない。ここにジェンダーの非対称性が見られます。さらに言うと、女性が長期にわたり官庁に勤務する際に3世代同居があり、それによって支えられている構造が、三木のキャリアから見られます。

むすび

以上、三田演説館の壇上という近代日本にとって特別な意味を持つ場所から近代日本を振り返ってきましたが、明治期に福澤と慶應義塾が直面した主題が、現代の私たちにとっても形を変え、切実な主題として存在していることがわかります。

例えば、現代的な課題として、ケア労働とジェンダー構造の問題を挙げることができると思います。今日を記念して言われる「慶應義塾は一日も休業したことがない」という言葉、これはあくまでシンボリックな表現ではありますけれども、慶應義塾が本当に1日も休まない場合、休まない義塾のメンバーのために食事をつくったり、掃除をしたりするのは誰なのかという問題はやはり問われるだろうと思います。

フルタイム男性労働者が1人で家計を支える構造は、ジェンダー不均衡を再生産し続けてきたのではなかったか。生き馬の目を抜くような競争社会で、そうしたケア労働に男女がともに参加する時間的余裕があるのかと言えば、それはないでしょう。だとすると、こうしたことを可能にする社会のあり方、人と人との結びつきはどのようなものであるべきなのか、という問いに戻ってくるわけです。近代日本の経験はそうした問いを想起させる素材に溢れています。

そして、暴力の契機です。競争が暴力行使に転化しないためにはどうしたらよいのか。あるいは暴力行使がなければ不利な立場に置かれた人々が参入できない社会の仕組みはどのように避けられるか。福澤はウェーランド経済書講述の日に、当時慶應義塾があった新銭座と上野は2里も離れており、鉄砲玉が飛んでくる気遣はないと書いていますが、福澤の時代よりもはるかに狭くなった現代の世界において、上野は遠いのか。どこの砲声ももはやわれわれにとって遠いとは言えないのではないでしょうか。私たちはテロの恐怖を生々しく語る福澤の、暴力に対する敏感さをもまた共有すべきではないかとも思う次第です。ご清聴有り難うございました。

(本稿は、2023年5月15日に三田演説館で行われた福澤先生ウェーランド経済書講述記念講演会での講演をもとに構成したものである。文中の福澤諭吉の原文は『福澤諭吉著作集』(慶應義塾大学出版会)による。)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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