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【講演録】戦争・立身・ジェンダー──明治日本の基礎過程

2023/07/27

立身出世の時代

しかし、そうした自覚的な人々による集団形成は限界があり、急激な身分制社会の解体の中ですべての人の防波堤の役割を果たすことは結果的にできませんでした。よるべき集団を持たない個人は自己の努力による立身出世を図ります。成功熱という言葉が出るほど成功に対する願望や欲求が非常に高まるのです。

そうした中で、社会の中に苦学生と言われる存在も生まれます。現在、苦学生という言葉はどちらかというと、学籍を持っていて、学費が払えずにたくさんアルバイトをしなければならず苦労している学生を指しますが、明治時代の苦学生は、学校に入る前の段階で使われていました。つまり、学校に入るために都会に出て、働いて学資を貯めながら受験勉強をする、という人です。

苦学してでも高等教育を受けたい人はあちこちにおり、そういう人たちを煽る本も売れました。一例に『自立自活 東京苦学案内』というガイド本があります。東京に出てきて苦学するならこういう学校やバイト先がある、といったことが書いてある本です。この本の序の一部を抜粋すると、「諸君が憤起一番した時は親をも頼まぬ、親類も頼まぬ、頼む所は鉄の如き決心と火の如き熱心だ。(…)健康な身体と独立の精神さへあれば諸君の学資位は心配無しにできる」と書いてあります。しかし、実際には努力は何ら成功を保証しません。多くの苦学生はいかに決心固く東京にやってきても、人力車を引くような過酷なバイトをし、残りの時間で勉強ができるかと言えば疲れ果てて眠ってしまう。中には悪辣で、苦学生に勉強や進学の案内をすると称して人を集め、実際には日雇い労働に従事させて勉学の機会は与えないという派遣業者もいました。

もちろん数少ない成功者もいます。逆に言うと、努力しない人はこういう社会では絶対成功しません。ですが、努力したからといって成功するわけではない。人間には当然運不運があり、病気になったり、家族の事情だったり、いろいろな事情で行く手を阻まれることはいくらでも考えられます。しかし、努力しないと成功しない社会では、結果的に成功した人はみんな努力した人です。すると、成功した例だけを見て、道徳的に正しい行為を続けていれば成功すると思い込む。結果だけ見て、頑張れば成功するというのは、今で言う生存バイアスと言われるものです。

そうすると成功している者は道徳的にも正しいことになり、失敗した者は道徳的にも敗者になってしまう。要するに「頑張らなかったのでしょう」という話になります。それがさらに、頑張れば成功するわけではないことはみんな知っているわけですが、成功しさえすれば、後追い的に、道徳的に良いことをした、頑張ったということになります。ともかく成功すればいいということになると理屈が転倒してしまうわけです。すると、手段を選ばなくなり、場合によっては不正な手を使ったり、他人を蹴落としても構わないというような立身競争が展開されることになります。こうして身分制社会の解体の中から、立身出世ブームという時代を特徴づける1つの性格が表われてくるわけです。

福澤女性論と「家」型家族・近代家族

3番目にジェンダー、性別役割分担の話をします。ここまでは基本的にほとんど男の話でした。戦場に出るのも、立身出世や成功を願うのも主体は男です。では女性はどうなのか。ここでまた福澤の話に返りますが、福澤の女性論は私の乏しい学識では到底歯が立たないほど難解です。論点が非常に多岐にわたり、財産権のことや、婚姻のこと、あるいはセクシュアリティの問題など、複数の論点があり、複数の読み方があるだろうと思います。

ただ1つはっきりしている点があり、福澤諭吉は何と戦っていたかということだけは非常に明瞭です。日本近代史研究にかかわらず、歴史学において家族といった場合に近代家族という概念があり、近代家族とそれ以外という区別があります。日本近代史では、とくに近代家族型ではないものとして「家」型家族を想定するのが一般的です。家型家族には、農家も含め伝統的な屋といった小経営のイメージがあります。つまり家とは単なる消費と生活の場ではなく、収入を得て生活をするための生業を営む家族労働の場です。それは当主、妻、その前の世代、次の世代を含め、皆が労働をするという家族のあり方です。

日本の「家」型家族は男子の直系相続であることが一般的で、男が跡を継いで縦につなぐというものです。歴史学では家名・家産・家業の一体性と言われます。江戸時代に苗字は許されませんでしたが、屋という屋号や、家の財産である家産、農家であれば土地、商人であれば店舗があり、それらを代々一体的なものとして当主が継承する。屋の仕事は何であり、親が農民なら子も農民であるというように家業があるのが一般的でした。

小経営で直系相続の、こうした承継型の家族が江戸時代の初めに広がった日本の家族のあり方だと考えられています。これはお墓などを見ると明瞭で、江戸時代より前は、先祖の墓はなかなか見つけることはできません。墓を継続的につくり始める、つまり子孫が祀ってくれることを前提とする墓は17世紀以降の農村に出てくるのが一般的です。

これに対し近代家族は、理念的には職住分離を前提にしています。仕事をするために家から出て、会社や工場で働く。これは同時に性別役割分業を伴っていました。男性は外で働き、女性は家事と育児を担当するという性別役割分業です。後で述べるとおり、実際はそうではないことがしばしばありますが、理念的にはそういうものが近代家族と言われます。家族は生産、営業の場ではなく、消費の単位に単純化されます。

福澤の主要な批判対象が当時における「家」型家族のあり方であったことだけは、どれを読んでも疑問の余地はないと思います。近代家族に対し、どういう考え方をとっていたかはいろいろな読み方があり、私もよくわかりませんが、「家」型家族は江戸時代にも、明治時代においてもごくごく一般的でした。明治時代の社会は圧倒的に農業社会で、農家は皆「家」であり、「家」単位の都市の小営業あるいは職人や商人の世界が分厚く存在しており、工場や会社の世界はまだ部分的にしか存在していませんでした。

「家」と労働

このように明治においても職住が分離している近代家族型のスタイルはごく少数で、「家」型家族が標準的なものとみなされていました。男性は家を相続して維持し、発展させ、家を継承できなかった者は家を新たに興す。家経営体の主人となることが目標であり、経営体かどうかにかかわらず、立身出世と言った時の1つのイメージが自ら家の祖となることでした。

明治期の工場労働者にとって、キャリアの目標は企業内で出世を重ねていくことではなく、最終的には独立して町工場のような作業場を持つことだと広く考えられていました(尾高煌之助『新版 職人の世界・工場の世界』)。長期勤続してだんだん上がっていくのではなく、いろいろな工場を渡り歩き、技能を身につけ、自分の工場を興すのが職人にとってのキャリアの上がりであるとみなされていました。小経営の主となるのが到達目標とされていたのです。「家」は近代にも広く存在しており、その意味で「近代家族」はやや誤解を招く概念なのであまり使いたくないのですが、便宜的に使います。

江戸時代の社会でも「家」は基本的な単位ですが、先ほど話したように、社会集団の中に包摂されていました。ところが明治時代に入ると、身分的な社会集団が消滅してしまい、家同士の直接的な相互競争が生まれます。そうなると「家」経営体が相互に生き残りをかけ、例えば農家は労働集約的になっていく。女性は男性家長の指揮のもと、生産労働・家事労働の双方で家への貢献が求められる度合いがより強くなります。

農家副業のことを考えるとわかりやすいのですが、農家は農業だけをやっているわけではありません。農閑期には例えば、糸の供給を受けて織物を織り、手間賃をもらうといった副業が行われ、それは女性が担当します。つまり余っている労働力をことごとく使うことで生き延びていこうとする戦略を取る。農業技術自体も相当労働集約的になっていき、家族の中でできる限り稼げる人が稼ぐ仕組みへと圧が高まっていきます。

当然、専業主婦などは存在しません。しばしば見られることですが、子どもが小さいうちは、その母親の世代はもっと働ける場面があるわけです。畑や田んぼに出ることも可能ですし、織物を織ったり、農家内での家内工業に従事することもできました。母親はそういうことを優先的に行い、祖母の代が育児と家事を担当するという労働力の分配が見られました。母がつねに子育てを担当するわけではなく、とにかくみんなずっと働いているという構造があったのです。

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