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【講演録】戦争・立身・ジェンダー──明治日本の基礎過程

2023/07/27

暴力の拡散・政治参加の拡散

彼らの主たる戦場となったのは北関東での戦いです。慶応4年4月に北関東で新政府軍と幕府歩兵隊の残党がかなり激しく衝突しました。この時、新政府軍側の参謀に土佐藩の板垣退助がいました。板垣は後に自由民権運動の指導者として有名になりますが、この時は土佐藩のリーダーとして戊辰戦争に参加しており、とくに会津戦争などでは軍事的な活躍をもってその名が知られます。この北関東の戦いの時にも戦場で指揮を執っています。

板垣の回想に、旧幕府軍と戦って「敵の死兵を検すれば、多くは是れ賤劣なる文身彫青せる破落戸」という一節があります。戦場で両方とも相当数の戦死者を出し、戦死者の状況を見に行くと、死兵の多くは刺青を入れている破落戸(はらくこ)(ならず者)でした。この露骨に差別的な表現は自由民権運動の指導者である板垣のイメージと乖離しますが、刺青を入れた破落戸が大勢いたのは、江戸の都市下層の人たちが軍隊に加わっていたからです。こういう人たちが戦場にたくさん投入されたのが戊辰戦争でした。

もちろん新政府軍、旧幕府軍とも、兵卒のすべてが都市下層民だったわけではありませんが、資料によると、何らかの形で労働の請負業者に依存した部隊編成が諸藩で散見されます。とくに有名なのが名古屋の尾張藩の部隊です(長谷川昇『博徒と自由民権』)。ここは博徒の親分が手下を引き連れて軍隊を編成していました。博徒の親分と人宿の斡旋はかなり似通った世界で、腕っぷしの強い人たちをたくさん軍に取り込んで戦争が行われていたのです。こういう人たちの総数は不明ですが、肝心なのは、江戸時代には戦闘員ではあり得なかった人たちが戦場に出ていることです。明治になり、徴兵令が施行され国民に兵役の義務が課されるよりも前に、すでに非戦闘員であるはずの人が傭兵として戦場に出ていたということです。つまり、江戸時代の社会の編成原理を大きく揺るがすものだったことが重要です。

江戸時代の社会は武士が支配者です。武士は軍事力の担い手であり、同時に政治権力の担い手でした。これが江戸時代の社会の基本的な構成原理です。この図式が戊辰戦争では崩れてしまう。社会の根本の部分が機能しないことが戊辰戦争では明らかになりました。

武士だけでは戦争はできないということ、それが暴力の拡散を生んでいくわけです。武士身分以外の人たちが戦場に投入され、その中から後に自由民権運動に参加する人々が出てきます。例えば、先ほどの尾張藩の博徒の親分が組織したような軍隊の人たちは、明治10年代に入ると自由民権運動の一部の担い手として姿を現すことになります。さらに、もう少し知られた例では、後に板垣と並び自由民権運動の指導者として知られる、福島の三春出身の河野広中(ひろなか)という人物は少なくとも武士の家の出ではありません。しかし、戊辰戦争では新政府側に付いて結構な活躍をします。三春藩はもともと奥羽越列藩同盟の一部で新政府と敵対する関係にありましたが、それを新政府側に寝返らせる時にかなり活躍したという自負が彼にはありました。

こういう人たちは、戦争で活躍したのだから戦後ももっと活躍したいという欲求を抱きます。つまり、これまでの社会の編成原理は戦闘員たる武士が政治の支配者であるという理屈で成り立っていましたが、戦場に様々な人が出ると、皆が政治的な決定の場に参加したがる。参政権を求める運動へと転化するという論理の道筋がありました。

しかし、戊辰戦争で勝った側全員に適切な処遇が与えられたわけではありません。板垣退助などは戊辰戦争の英雄となり、新政府でも枢要な地位を占めますが、1873(明治6)年の征韓論政変で政府を追われることになります。すると彼には、自分は明治政府の政治に寄与しているのに、なぜ政権中枢にいられないのかと不満感が当然たまってくる。これは単なる不満感にとどまりません。自分たちは国家に貢献したのだから、然るべきものを言う権利があるはずだという、より強い権利要求を出すようになります。暴力的な戦闘に参加したことによって権利要求を勝ち取る、そういう経路があったのです。私は、明治時代のこうした状況、自由民権運動が始まる状況を「戊辰戦後デモクラシー」と呼んでいます。

「戦後デモクラシー」と言うと、一般的にアジア・太平洋戦争が終わった後の民主化あるいは民主主義の運動を意味しますが、近代日本政治史が専門の三谷太一郎さんは、日本の戦後デモクラシーは複数回あると主張しています(『近代日本の戦争と政治』)。日本では、どの戦争でも、その後に必ず民主化や政治参加の拡大要求が起きている。これはなぜかと言うと、戦争をやると、租税負担の点でも、直接戦場に投入される点でも、国民の負担が増大する。負担の増大は戦後、その受け皿になった人々の権利的な政治要求を認めざるを得ない力として働く。こうしたメカニズムによって、例えば日清戦争の後には政党がそれまでの権力のアウトサイダーから権力の中枢に近づいていくという事態や、日露戦争後に民衆が街頭活動を行う事態が生まれる。あるいは日露戦後を大正デモクラシーの時代と考えた場合に、大正デモクラシーの状況も一種の戦後デモクラシー状況として捉えられる。戦争の負担に耐えたことによって、戦後活発化した幅広い人々の要求を受け止めるための運動と理解できると、三谷さんは説明をしています。

私の言う「戊辰戦後デモクラシー」は、三谷さんの「戦後デモクラシーは複数ある」という発想をその1つ前に遡らせることで着想したものです。戊辰戦争の時にも実は似たようなことが起きているのではないか。これまで戦争に巻き込まれるはずのなかったかなりの人たちが巻き込まれ、それによってその後、政治的な能動性が引き出されたのではないかと論じるものです。つまり、政府に対し、国家に対して貢献したのだから権利を認めろ、と強く出られる人たちが多数存在したことが自由民権運動の条件ではないかと思うのです。

自由民権運動は1874(明治7)年に民撰議院設立建白書の提出から始まりますが、この中で展開されたのは所謂、有司専制批判というものです。有司とは官僚、役人といった意味ですが、とくに根拠もない、選挙によって正統性を得ていない人々がなぜ権力を握っているのか、なぜあの人たちが支配者で、われわれは支配者ではないのか、それについての合理的な説明がないと。権力のレジティマシー(正統性)や支配の根拠がない、その正統性のなさを突くために持ち出された論理でした。

政府が正統性を持つためには、国民──といってもこの場合は限られた人間になりますが──の多数の声によって支えられていることが必要だ、そのために議会を開くべきだという論理が一気に広まる土壌には、このようにものを言う権利が自分にはあると思っている人がたくさんいました。これを引き出す背景の1つが戊辰戦争だったと思います。これは一方で、政治参加要求が発生した時点で暴力の契機を背景に持っていたことと表裏のものであったことを示してもいます。

「一身独立」と「人間交際」

2番目に立身、競争の契機についてお話しします。再び福澤の言葉に戻りますが、福澤が身分制に対し、非常な敵意を燃やし、一身独立論を唱えたことは広く知られているところです。私なりの言葉で言うと、福澤が『学問のすゝめ』で展開した一身独立論は、身分による地位の固定によってではなく、個人が他者に依存することなく、知的に自ら判断し、経済的に自活して独立を果たす。それが社会の基礎であると説いた思想である、とまとめることができると思います。ここでは当然ながら個人の努力の要請があり、一定の努力をしない者は独立できない。だからこそ学ばなければならないということになります。

ただ、福澤における「一身独立」は非常に包括的な概念で、経済的な独立に限られるものではありません。社会の構成員としてのルールに従い、社会に貢献するということも含んだ概念です。福澤自身の言葉を引くと「人たるものは唯(ただ)一身一家の衣食を給し、以(もつ)て自(みず)から満足すべからず、人の天性には尚(なお)これよりも高き約束あるものなれば、人間交際の仲間に入り、その仲間たる身分を以て世のために勉(つとむ)る所なかるべからず」(『学問のすゝめ』第10編)と言うわけです。ここで、ソサイエティという概念を翻訳した、「人間交際」という福澤の概念としても非常によく知られたものが出てきて、独立を果たした一身は人間交際の仲間、社会のメンバーとして、1つの道徳的なルールのもとで相互に交際することが求められています。

しかし、福澤の説くところと身を立てることは、近代日本では異なったニュアンスをもち、やや一面的に捉えられていたということになります。福澤研究で有名な松沢弘陽さんは、要するに経済的に独立すればいいのだよ、という発想に対して歯止めをかけようという福澤の努力があったにもかかわらず、「しかし自己利益追求の欲望はおさえようもなく広がり続けた。皮肉なのは、福澤の『学問のすゝめ』による一身独立への訴えが、このような動きを促進する役割を演じたことだった」(『福澤諭吉の思想的格闘』)と述べています。

身分制社会の解体──「袋」から結社へ

それでは、明治期日本社会を特徴づける概念と言われる、立身出世熱、自分が努力することによって社会的な地位を上昇させたいという欲求、欲望はどこから生まれてきたのかを考えたいと思います。これは福澤が批判した身分制社会が解体するところから生まれます。身分制社会と言った場合、私が念頭に置くのは必ずしもピラミッドのようなあり方ではありません。士農工商という概念はもはや高校教科書などで使われなくなって久しいですが、身分制社会は上から下に階層的な秩序があるというだけではありません。私は「袋」の比喩を使ってよく説明していますが、江戸時代の社会とは身分的な集団によって構成されている。その小さな社会集団がたくさんモザイク状に集まってできている社会だというのがポイントだと思います。

袋である小さな集団1つ1つには身分的な位置づけが与えられています。例えば「村」は江戸時代に6万ぐらいありますが、それらは百姓身分を持つ者の小さな社会集団です。兵農分離社会ですから武士は基本的に城下町に住んでいますが、何らかの事情で村の範囲内に武士がいても村人にはなりません。村の人別帳には入らないのです。現在の地方自治体であれば、その自治体の中に住み、住民票を置けば基本的に誰もがそこの住民ですが、そういうものではありませんでした。

都市では「町」と言われますが、町は現在の〇〇1丁目よりもずっと小さく、1つの道路をはさんで両側のワンブロック──両側町と言いますが──、これを町と言います。こういうところに土地と家屋、つまり町屋敷を持っている人が町人です。町人とは町のメンバーであることですが、江戸は全部の場所に〇町と地名が付いていたわけではなく、武家屋敷には町名は付いていませんでした。

三田キャンパスがある場所は、現在では三田2丁目と住所がありますが、もともと武家屋敷地ですから、江戸時代に住所はありませんでした。この近辺の道路に面したところには町人地があり、そういう場所は三田町でしたが、武家屋敷は武士が住み、町人が住むところではないので町とは言わない。明治になって初めて江戸のすべての場所に地名が付きます。

そういう小さな集団がモザイク状に寄り集まっているのが江戸時代の社会です。それぞれの身分は領主から負荷される役(やく)を負っています。職人が集住している町なら、技能に応じた役が設定されています。例えば「南鞘町」という町なら刀の鞘をつくる仕事を請け負わされているといった役がありました。

その中で根幹的な役は武士が担う軍役でした。軍事力の担い手が支配者であるのは、武士という身分が軍役を負う社会編成になっているからです。身分制社会という社会編成のあり方は、軍事力の担い手が武士であることと表裏一体です。それまで他の役を負っているべきだった人が軍事力の担い手になると辻褄が合わなくなってしまいます。だから戊辰戦争をきっかけに軍事力の担い手が支配者であるという原則が崩壊し、身分制社会の解体が不可避的に引き起こされる事態が生じたのです。

これは計画的に、深慮遠謀のもと、身分制社会をなくそうという計画を立てて新政府が1つ1つ手を打っていったというよりは、むしろ後追い的に身分制社会がどんどん崩れ、成り立たなくなっていったというものです。それにどうやって対応しようかといううちに、新しい制度を一からつくり直さなければならなくなり、身分制社会を解体する諸法令、諸改革が実行に移されていきました。

それが例えば、1871(明治4)年の廃藩置県であり、1872年の徴兵告諭です。ここで国民皆兵が謳われ、武士は無用の存在になります。本来軍役を担っているはずの武士が、ただ座食の徒となり、給料だけもらって何もしない人だと言われるのは、それまでの軍事力の担い手という役割を喪失したからです。

1873年から地租改正が行われますが、これが身分制社会の1つの構成要素であった年貢村請制を解体します。それまでは小さな集団単位で社会は把握され、集団単位で義務を負っていました。ところが、そういう社会は成り立たなくなり、社会集団が壊れていくと、個人に責任を負わせるしかなくなります。地租改正とは、全国の土地を原則として1つ1つ測って地価をつけ、その一定割合を地租という税金で取っていくものですので、これまで村単位でかけていた年貢村請制ではなくなります。つまり納税は個人の責任になります。それまでの村請制では年貢を払えない人がいた場合、誰かが立て替えなければいけませんでした。年貢の立て替えを村役人、名主や庄屋といった人たち、あるいは富裕な人が支えていました。

江戸時代の人は現在に比べて優しかったということは信じ難いわけですが、社会の仕組みとしてそういう連帯責任の仕組みがありました。例えばある人が耕作放棄をして逃げてしまえば、その人の年貢は誰かが払わなければいけません。そういう「強いられた連帯」みたいなものが年貢村請制のもとではありました。しかし、地租の納税責任を個人が負うことになると、その人が払えなければ財産や土地が差し押さえられ、競売にかけられるという話になる。「強いられた一身独立」みたいなことになるのです。

これを私の比喩では「袋が破れる」と言っています。社会集団という袋に含まれている人たちは、一面では閉じ込められていたとも言えるわけです。その中に閉じ込められていたとも、包まれていたとも言える人たちが、好むと好まざるとにかかわらず、わっと出てきてしまうことになり、これが社会の非常な流動化を生む。これはある人にとっては当然チャンスです。これまでなかった機会が開けてくることで、そういう可能性にかける人たちは立身出世の道をつかもうとします。また、ある人たちにとってはそれまでの生活が続けられなくなり、不安でしかなくなります。

そうした中で、完全にばらばらな1人になってしまうとつらいので、何らかの形で社会のあり方をつくり直そうとする試みが行われます。その1つが結社というものです。明治の前半期はさまざまな結社が生まれた時代として知られています。学習結社が中心ですが、経済的な目的でつくられた結社や、農業技術を研究するための結社などが、中央、地方を問わずたくさん生まれます。言うまでもなく慶應義塾もそういった結社の理念をもってつくられた場であり、社中という言葉が今日もなお義塾の関係者を指す言葉として使われ続けているのはこうした背景があります。

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