三田評論ONLINE

【その他】
【講演録】戦争・立身・ジェンダー──明治日本の基礎過程

2023/07/27

  • 松沢 裕作(まつざわ ゆうさく)

    慶應義塾大学経済学部教授

本日は講演をする機会をいただきまして、誠に有り難うございます。私は日本近代史の研究、とりわけ江戸から明治の時代にかけての社会の移行について研究しています。そういう者にとって、三田演説館の壇上で話をするのは特別な機会です。言うまでもなく三田演説館という場所は、近代日本において、言葉によるコミュニケーションによって世の中を形成していく試みが組織的に行われた、最初期の現場です。そのようなわけで今日は演説家になった気分でしゃべらせていただこうと思います。

近代日本の原型はいったいどのようにつくられたのか、自分の研究を顧みながら、また多くの先学の研究に学びながら、今日は自分なりの見通しを提示してみたいと思います。「戦争・立身・ジェンダー」と掲げました通り、柱は3つあります。抽象的に言うと、戦争とはつまり暴力の契機です。立身とは競争の契機。ジェンダーとは性別役割分離あるいは性別役割分業の観点です。近代日本は暴力によって、また競争によって、また性別役割分離のあり方が新しくつくり直されることによって、誕生していった側面があったと考えられますが、同時に、近代という時間軸、近代日本の社会の動きの中で新たな暴力、競争、性別役割分離が相互に絡み合いながら、それぞれの新しいあり方が生み出されたと考えられます。

福澤諭吉における暴力の問題

まずは戦争についてです。今日まさにこの日が記念されている所以は、上野戦争です。慶応4年5月15日(1868年7月4日)、上野・寛永寺に立てこもった彰義隊と新政府軍の間に戦闘が行われました。そのさなかにもかかわらず、福澤諭吉はウェーランド経済書の講述を続けました。そして、「慶應義塾は一日も休業したことはない」(『福翁自伝』)、この有名な福澤諭吉の言葉が残されています。

この『福翁自伝』の中の一節に続く部分に、非常に印象的な文章があります。

「夫(そ)れはそれとして又(また)一方から見れば、塾生の始末には誠に骨が折れました。戦争後意外に人の数は増したが、その人はどんな種類の者かと云(い)うに、去年から出陣してさん〴〵奥州地方で戦(たたかつ)て漸(ようや)く除隊になって、国には帰らずに鉄砲を棄てゝその儘(まま)塾に来たと云うような少年生が中々多い。(…)実に血腥(ちなまぐさ)い怖い人物で、一見先まず手の着けやうがない」。

戦争に参加した人たちをいかに義塾の教育の場に取り込んでいったかというエピソードが続くわけですが、戦争の空気が当時の慶應義塾に流れ込んでいたことがここからも窺うことができます。

そして、これも『福翁自伝』に出てくる有名なエピソードですが、福澤は幕末から明治の初期にかけて、長期にわたり暗殺される恐怖を抱えていたことを率直に語っています。いろいろな形で暗殺されかけたエピソードが出てきますが、それをまとめるように「不愉快な、気味の悪い、恐ろしいものは、暗殺が第一番である。この味は狙われた者より外(ほか)に分るまいと思う」と書いています。福澤にとって暗殺の恐怖は、幕末の攘夷派はもちろん明治の初めの頃までずっと続いていた。慶應義塾発足期において、福澤が自分の身を暴力から守ること、慶應義塾において暴力をコントロールすることに大きな注意を払っていたことが、『自伝』からは読み取れます(河野有理「暗殺と政治」)。

戊辰戦争を戦ったのは誰か?

暴力行使の拡大と、それがいつ行使されるのか予測がつかない状況が、日本の近世・近代移行期の、明治維新と言われる政治と社会の動きの中に存在していたことを軽く見るべきではない、というのが私の立場です。このような状況がどのように生まれたのかというのが次の主題です。直接のテーマは戊辰戦争ですが、新政府軍と旧幕府軍の間で行われたこの戦争は、かなりの部分で戦闘を交えず、各藩が新政府側に恭順する具合で進みますが、東北地方や北関東をはじめ、局地的な戦闘はあちこちで起こります。

戊辰戦争が軍事史的にどのような特徴をもつかというと、新政府軍も幕府側の軍隊も江戸時代の方法ではなく、西洋近代型の軍制、兵隊で戦ったことです(保谷徹『戊辰戦争』)。新政府軍は直轄軍がいるわけではありません。廃藩置県もしていないので、各大名の軍隊を寄せ集め、それに命令し戦争をしていました。しかし、寄せ集めるに際して、新政府側は江戸時代型の騎馬武者の軍隊で来るな、大砲と鉄砲で編成された西洋式の軍隊で参戦するようにと各大名に求めました。一方、幕府側もその直前に軍制改革を行っており、基本的には西洋型の軍隊の仕組みを整えています。

江戸時代の軍隊は鉄砲、弓、長槍を併用しますが、最終決戦は騎馬に乗った武者による白兵戦で決着をつけることを前提にしています。したがって、その中核には騎馬武者がおり、その周りを固める従者がいました。その前には鉄砲隊や槍隊もいましたが、そういう戦闘ユニットで構成されていました。これは江戸時代の最初にシステム化された軍事力の編制ですが、江戸時代は支配者の武士が、実際に戦闘行為を行うことはほぼありませんでした。

ところが、幕末になって国内外で軍事的な緊張が俄然高まると、実力を行使する可能性が高まります。その時は、もう軍事技術は海外では全然違うレベルに達しており、とりわけ幕末・維新期に日本に流入してきたライフル銃が画期的なものでした。ライフル銃とは銃の筒の中に溝が掘ってあり、撃った時に回転して弾が出る。正確に当てるための射程距離がそれまでの銃とはまったく違い、飛躍的に伸びました。軍事衝突の可能性が高まると、当然幕府をはじめ、各藩はそれを導入します。するとライフル銃をより効率的に使う軍隊が強いということになり、騎馬武者の前に鉄砲隊がいる江戸時代型のやり方では勝てなくなります。そこで銃の導入だけではなく、軍隊のあり方も再編成しなければならなくなる。軍制改革によって騎馬武者と従者という戦闘ユニットを解体し、指揮官である士官と兵卒の2層から構成される、集団戦を行うための西洋式の軍制が導入されるようになるのです。

幕末に幕府や各藩で軍制改革が実行されたのは、実際に戦争になる可能性が高まる中で、西洋式を採り入れないと負けてしまう状況があったからです。これも一種の競争で、お互い競い合うようにそれを採り入れていきます。戊辰戦争とは、江戸時代の軍隊から近代の軍隊への移行期に起きた戦争であり、単に技術的に新しくなった武器で戦っただけではなく、軍制改革と連動して社会のあり方そのものが大きく変わるような戦争だったことが重要なのです。

江戸幕府は幕末に、数回にわたり軍制改革を行いますが、江戸時代の軍隊のあり方を決定的に解体したのは戊辰戦争の直前、慶応3年9月の軍制改革でした。軍隊の基本だった旗本たちは、幕府の軍事力の中核的な担い手と考えられてきましたが、この改革で、旗本たちの軍隊が解体されました。彼らはそれまで石高に応じて、馬に乗り、手下を引き連れる軍事奉仕の義務を将軍に対して負っていましたが、それはもうしなくていい、代わりにお金を出しなさい、となり、旗本はそれぞれ与えられていた領地の分のお金を幕府に払うこととなりました。そして幕府はそのお金で兵隊を雇う。いわば直接雇用の傭兵をつくろうとします。

この時、兵士をどのように雇ったかがポイントです。江戸時代には人宿(ひとやど)と呼ばれる、奉公人の斡旋業者があり、武家屋敷だけでなく、土木工事などいろいろなところに労働力を周旋していました。幕府は江戸市中の有力な人宿を「歩卒請負人頭取」に任命し、歩兵を集めさせたのです。大名や旗本はもともとこうした人宿を通じ、市中から奉公人を従者として抱え入れていました。戦闘をするわけではない時は大名ごとに奉公人の需要が変わるため、人宿でその数を調整していました。武家屋敷は基本的に派遣業者に依存していたのです。それを軍事力に転嫁させるというのが幕府の計画でした。こうして幕府歩兵隊がつくられますが、その実態は、現在風に言うと労働者派遣業者である人宿を通じて雇用された都市下層民です。人宿にプールされているのは肉体労働者で、その中から腕っぷしの強い奴を集め、兵隊として雇い入れる形で歩兵隊は編成されました。

幕府歩兵隊は、鳥羽・伏見の戦いや京都での軍事衝突で実際の戦場に投入され、薩摩藩などの新政府に負けて江戸に戻ってきます。その時、徳川慶喜は軍艦に乗って大坂から江戸に戻りますが、幕府歩兵隊は東海道を帰ってきました。江戸に帰ると、徳川慶喜は恭順姿勢で基本的には抵抗しない。一定程度の軍事力を背景にしつつ基本的には逆らわない姿勢を示していました。そうすると、幕府歩兵隊の者たちは仕事がありません。帰ってきたら、もう戦争は起こりそうもなくなっていた。その中で、幕府の中に徹底抗戦派が出て、歩兵隊を率いて脱走する者が現れました。歩兵隊の中には、どのみち失業するだけなので、まだ戦争すると言う人がいるならそれについて戦争しようという者が現れ、歩兵隊の脱走が相次ぐことになります。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事