【その他】
【講演録】慶應義塾における教育研究の産業界への貢献──現代の実学とは?
2022/08/16
福澤と「浮世」
福澤諭吉の本、特に『福翁百話』を読んでいると、「浮世」という言葉がよく出てきます。浮世の沙汰も金次第とか浮世離れの浮世ですね。「浮」というのは苦しい、つらいという意味です。「憂き世」が本来の形でつらいことが多い世の中のことを言った。だんだん「浮世」に変わってきた。これは仏教思想で厭世的なわけです。
福澤には厭世観が漂っていると言っている人もいますが、例えばこんなことを言っています。「生まるゝは即ち死するの約束にして、死も亦(また)驚くに足らず」(『福翁百話』「人間の心は広大無辺なり」)。
福澤諭吉が、育ちが貧乏で身分が低かったことは、やはり非常に大きいと思います。そして頭がよかった。いろいろなものを見ているわけです。人間生まれる時は母を苦しめ、死ぬ時も病気で苦しむ。苦痛のあまり死を選ぶ時がある。意外とこの世のことを気に入っていないのだなと考えながら福澤の本を読んでいました。あれだけ西洋の影響を受けていながら、神の愛とか人間に生まれてよかったとか神に感謝するといった記述は全く出てこない。
例えば、「天道果して至仁にして博愛ならんには、難産の母には初めより子を産むことなからしむるに若(し)かず、病苦を以て人を殺し又常に徒に之を苦しむるの戯(たわむれ)をなさんよりも、寧ろこの人を出生せしめざるこそ仁の法なれ」(同書、「天道人に可なり」)。福澤の時代は今のように病院に運んで帝王切開などなかったので、お産は非常に難しかったのだと思うんです。苦しんでいる人を最初から出生させないことこそ憐れみだとまで言っているように、この世にいろいろ矛盾を感じていたと思います。これは私の全くの想像ですが、福澤諭吉は、自身はかなり長寿だったと思うのですが、このままならない浮世をどうしようかということを非常に強く考えていた人だと思うのです。
「浮世を棄るは即ち浮世を活撥に渡るの根本なりと知るべし」(同書、「事物を軽く視て始めて活撥なるを得べし」)。これは非常に意味がある言葉だと思います。福澤諭吉には道徳的な厳しさがある。そして自分でそれを実践している。学問も非常によくやる。けれども、最後の最後に「どうでもいいや」というところがあるのが魅力で、これが今の若者にウケるのではないかと思います。
命懸けで物事をやりきるとか、腹を切ってわびるというのはナンセンス。だから、この浮世の現実の世界で働いているのだからと、ある程度割り切っている。そうすると逆に浮世を活発に渡ることができるという逆説です。それで最後までやりきったのはすごいなと思います。
ニュートンからの影響
福澤は『福翁百話』(「前途の望」)で、「孔子は道徳の聖人、ニウトンは物理の聖人」と書いています。ニュートンがどんな人だったかを簡単に説明すると、本当に物理学者だったかどうかは疑問で、名著『プリンキピア』は日本語に訳すと「自然哲学の数学的原理」ということになります。自然を数学を用いて表現した。そこが以前の人とは全然違う。福澤がこの数学をわかっていたかどうかは疑問ですが、宇宙論などが『福翁百話』に出ているのは、ニュートンの影響ではないかと思っています。私が驚いたのは、いろいろなことに否定的な福澤諭吉が、ニュートンの厳密さが自然法則を体系化しているということ、「自然の法則は人間の味方」であり、法則を理解すればいろいろなことがわかるということを実践したことです。
孔子とニュートンのように知識を兼ね備えていれば、人生は幸福、社会は円満になるかもしれないと書いている。それで、人類の幸福、社会は円満になると言う。
小泉信三さんが、福澤諭吉について語っているCDがあります(『小泉信三 福澤諭吉を語る』慶應義塾大学出版会)。慶應の百周年の時の講演ですが、その中で、「先生はなぜ雨が降るのか知りたかった」と言っている。やはり小泉信三先生もこれを言うんだなと思いました。
もう一つ、この話はご存じの方は多いと思うのですが、この時の福澤諭吉が大好きなのでご紹介すると、『蘭学事始』という本があります。杉田玄白が書いたものですが、正本が火事で燃えてしまって、複写があるかどうかわからなかった。すると神田孝平という福澤の翻訳仲間が複写を湯島の露店で見つけたというのです。それで福澤諭吉は興奮した。『蘭学事始』とは杉田玄白の回想録、『ターヘル・アナトミア(解体新書)』の翻訳の苦労話です。
興奮して、とにかく写させてくれと。それで皆でわっと写して、杉田家にまずは挨拶に行く。「この本は売れない、でも出版させてくれ」と頼み込んで出版するわけです。その時に序文(「蘭学事始再版の序」)を書いて号泣するわけです。福澤は金儲けだけだと言っている人もいますが、100年前に死んだ人の回想録で涙を流して号泣している福澤諭吉は、やはり孤独を引きずっているのかなと感じられる。
大学と産業界
1990年、ちょうどバブル期に私はアメリカに渡っています。これが私の産学連携に対する考え方を随分変えました。アメリカのケース・ウェスタン・リザーブ大学というオハイオにある大学に行きました。アポロ11号が月で採ってきた石を最初に解析して発表した人が私を呼んでくれたんです。この頃、日本企業は最盛期です。日本企業の人たちは、学会のためにアメリカに大人数で来て、バスをチャーターして皆、帰っていく。応用だけかと思ったら、当時の企業は基礎研究でもばんばんお金をつぎ込んだ。ここにいた教授は、日本企業というのはすごいな、敵わないよな、と話をしていました。
私はとにかく一回素晴らしい日本企業で働いてみたいと思いました。これはやはり実社会、実学の実です。そこで、特許とかプロ集団の中で仕事をしたい。インフラも優れている。産業界への影響という中で、生産技術を持っていることはやはり強いんです。開発だけ競争しているわけではない。
大学はこことどうやって戦っていくかという戦いです。産学連携というと、何か仲よくお酒を飲んで楽しく懇親会をやって、というイメージがあるのですが、全くそういうことではない。私は1993年、(株)タンガロイ技術研究所に入り、研究開発に関しては企業は大学より優れていると感じました。
この後、私は1996年に慶應に赴任したのですが、驚いたのは、矢上はその頃プレハブだったんです。びっくりしましたね。すごく狭くて装置も何もなくて釘のようなものが下から出ている。それで上の先生から、頑張ってくれたまえ、自由にやっていいよと言われた。この時点で正直、私はもう終わったのではないかなと思ったんです(笑)。
そして、2003年、NEDO(新エネルギー・産業技術総合開発機構)で、経済産業省のプログラムマネジャーなどをやらせていただき、国の科学技術支援の仕組みがずいぶんわかりました。そして2005年に教授になってから学部の運営などに携わるようになり、電子顕微鏡などいろいろなものを買うようになりました。
講義をしていると、メンタルが不調だったり、寝ている学生が結構いるわけです。私も現実逃避型なので、社会の現実はつらいねと話して、「そんなとき僕は電子顕微鏡で原子が並んでいるのを見ると癒されるんだ」と言うとぴくっと反応します。私はダイヤモンドを作っているのですが、専任講師の時、普通のペットボトルでは酸素が入ってきて炭酸が出てしまうので、それを防ぐために内側にダイヤモンドの膜をコーティングする技術を開発していて、いまだにやっています。ガスを入れて、コーティングすると、炭酸が外に出なくて酸素が入ってこない。
あとはそれの応用で、血管が狭窄した時にステントを入れる。しかし、広げたステントに、また血栓が付着してしまう。手術後はよくても3カ月したらまた具合が悪くなりましたというのは、そういうことなんです。そのために血が付かない材料をコーティングしました。
京都駅の下の高架橋のコンクリートのこともやっています。新幹線は東京オリンピックの前にできているので60歳を超えている。高架橋を全然変えていないから危ないんです。亀裂拡大やコンクリートの中性化防止の実証実験をしていました。このように身近なことをやっています。
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