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【特別鼎談】アジアにおける民法典制定への国際協力──法整備支援への塾員の貢献

2021/03/24

ラオス民法典制定への支援

松尾 では、話をラオスに移します。ラオスではちょうどネパールから1年後、2018年12月に社会主義ラオスで初めての民法典が成立しました。ラオスはネパールと違い、法整備支援が始まったのは非常に早く、1998年から始まっていました。

最初は民法典をつくることは目標に入っておらず、10年ほど経った2012年に民法典起草が本格化しました。それに先立って様々な教科書や辞書をつくる準備期間があったので、プロセス重視の法整備支援の典型的なスタイルができたのではないかと思います。

入江さんは最後の成立の段階に立ち会われた。ここでもやはり生みの苦しみで、何度か国会に草案を提出して、その都度、草案の微調整があり、ラオスの立法担当者との橋渡しを入江さんがしてくださいました。

入江 私が初めてラオスを訪れたのは2015年の5月頃、JICA本部の専門員としてでした。ラオスの人たちはとても温かく、のんびりしているところはあるけれど、意思をしっかり持っているという印象でした。

私たちの活動は、ラオスの皆さんの背中を押しながら、活動を計画して会議を設定し、何度も同じ議論を繰り返して理解を促すということの連続でした。限られた時間のプロジェクトの中で、こうしたことを根気よく続けつつ、何らかの形に残さないといけないのが一番難しいことでした。

専門家として常に意識していたことは、「ラオスの文脈で物事を考える」ということです。法整備支援は日本法の知識を提供すればよいというだけではなくて、ラオスの文脈で何がラオスの人たちにとってよいのかと、一緒になって考えていくことが重要です。それを考えながら、ラオスの人に寄り添った発想で支援に携わっていくことが最大の面白みだと思います。

松尾先生をはじめとして長くラオスの支援に携わっておられ、民法の知見をお持ちの先生方がいらっしゃる中で、自分が貢献できることは、可能な限りラオス語で法律を読んで、ラオス語の法文として適切かどうかを判断することだと思い、民法典の草案についてはラオス語で判断できるようにしようと心掛けました。

民法典の起草は国家の一大事業で、それに携わっているという責任を常に感じていました。ラオス側の主体性を尊重しつつも、日本の支援によって起草された民法典として世界に発信されますので、法律家としておかしいところはおかしいと伝えなければいけない。このバランスが非常に難しかったです。

松尾 ラオスは社会主義革命を経て、1976年以降大きく法制をつくり替えている若い国ですね。ネパールは植民地になっていないのである程度連続性がありますが、ラオスはフランスの植民地になり、その後独立し、その後社会主義革命を経るという大きな社会変動があって、社会主義政権の下で司法制度ができたばかりです。

入江 おっしゃる通り、国としては非常に若いです。1986年に市場経済化した後に、民事関係の法律を外国の支援に基づいてつくっていったのですが、それらの民事系の法律を今回基本法として民法典として起草したというのが民法典起草の経緯になります。

また、ラオスには、革命や市場経済化という制度の大転換にかかわらず存在した統治機構として「村」があり、その村制度の下で多くの紛争が解決されてきたという実態があります。司法が機能していない中でも紛争は村長に持ち込まれ、村長がこのように解決しなさいと裁定する。村長が上手く裁定できない時は、村の調停委員会が裁定します。

他方、司法制度としては、司法省の傘下にあった裁判所が独立したのが1982年です。社会主義という政治体制やそうした裁判所設立の経緯もあって、日本や欧米諸国とは異なり、裁判という国家作用の政治的な色が強い。国家としてどういう裁判をするのが適切かという観点から、1つ1つの紛争について司法判断をすることから、そもそも日本とは紛争解決のコンセプトが異なる。

そのような中でどういう民法典をつくるかというところは、やはり意識せざるを得なかったところです。

松尾 ラオスの場合、村の制度という、社会主義以前から存在する伝統的なコミュニティが制度の連続性を繋ぎ止めている。そういった既存の制度の上に新しい民法典を乗せていく時にギャップができるだけ生じないように、随所でどちらかに僅かずつ引き寄せて接合することが、非常に難しいですね。

法整備支援活動の難しさ

入江 1つ間違えれば国家間の信頼関係を崩しかねないような緊張感の中での会議もありましたし、議論が白熱することもありましたが、それは、いろいろな関係者が、よい法律、よい民法典をつくろうと必死になっていたことの表れだったと思います。私は、国会本会議の前の常務委員会会議に外国人として初めて参加を認められ、信頼していただいていると感じました。

また民法典の起草においては、政治に関わる難しさ、越えられない壁があることも感じました。起草委員会で長い時間をかけて検討した条文も、政府の上層部の一言で委員会の納得のいかない修正がされましたが、民法典を国会に通過させるという大きな目標の達成のために、涙を飲んで受け入れなければならないこともありました。

さらに驚いたのは、民法典が国会を通過した後にも、施行までの間に一部の国会議員などを通じて条文の修正が行われたことです。これはラオス特有の慣習ではないかと思いますが、この修正によって、いくつか残念な結果を招いてしまったところもあります。

このような経緯もありましたが、無事、民法典が国会を通過し、施行に至ったことにひとまず安堵しています。

松尾 お二人の話を伺って共通するのは、法整備支援という1つの国の主権作用に関わる活動に外国人として関与することの難しさだと思います。一歩間違えば内政干渉になる。他方で、何かこちらとして、実際に役に立つコメントや情報を、率直に提示する必要がある。このあたりのバランスの取り方が非常に難しいと思います。

人ともそれぞれの国の政府関係者の信頼が非常に厚かったので、委員会の中に深く入って、率直な議論ができる信頼関係を築いていただいたことが、大きな成果を生んだ背景にあったのではないかと思います。

ラオスでは私も入江さんと協力する中で、最終局面で一部の国会議員から、「法律行為」という概念を民法典に入れることに異議が出ました。この言葉はすでに「法令」という意味で使われているから全部変えろと言うのです。

起草メンバーたちはこれまで10年以上もかけて、「法律行為」という概念に親しんで、その言葉を使って教科書を書き、問題集をつくってきた。様々な制度を統一的に説明するキー概念だったのです。私も起草メンバーの責任者から、悩みを打ち明けられた時に、非常に迷ったんですね。私たちとして、何か国会議員に向けてメッセージを発すべきなのか、それは内政干渉になってしまうのかと。

結局、アドバイザリー・グループとして国会議員と常務委員会に向けて、法律行為という概念はこの民法典では鍵になるもので、起草者が比較法的検討も重ねて採用した経緯には理由があるという意見書を出し、入江さんを通じて常務委員会で配っていただきました。私たちの葛藤が、入江さんの仲介により、法律専門家ではない上層部の議員の心にも届き、最後の最後でその概念が民法典で維持されました。

私がそのとき伝えたかったのは、これは起草メンバーであるラオスの若手が10年以上準備してつくったものだから、若手を信頼し、プロセスを尊重してよいのではないでしょうか、ということでした。入江さんと上手く連携が取れて提言が実現したので、私にとっても思い出深い経験になりました。

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