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【講演録】福澤諭吉と経済という言説──新旧両理念のはざまで

2021/02/10

父・百助のエートス

次に、『福翁自伝』を見ていきたいと思います。まず、触れておきたいのは比較的早く亡くなってしまった福澤の父・百助(ひゃくすけ)のことです。福澤は父親について「普通(あたりまえ)の漢学者である」と語っており、こうした記述から福澤の父のエートスが浮かび上がってきます。その中で福澤親子のエートスがどのように変わってきたか、息子が父親をどのように評価し、福澤諭吉自身のエートスと父親のそれとがどのように重なり合っていたかを理解しておくことは重要であるように思います。例えば、次の引用は福澤が父親の仕事について具体的に語った一節です。

「大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の金持、加島屋、鴻ノ池というような者に交際して藩債の事を司どる役であるが、元来父はコンナ事が不平で堪(たま)らない。金銭なんぞ取扱うよりも読書一偏の学者になって居たいという考であるに、存じ掛(がけ)もなく算盤を執 とっ て金の数を数えなければならぬとか、藩借(はんしゃく)延期の談判をしなければならぬとか云う仕事で、今の洋学者とは大に違って、昔の学者は銭を見るも汚(けが)れると云うて居た純粋の学者が、純粋の俗事に当ると云う訳けであるから、不平も無理はない」

「藩債」とは藩の借金のことで、福澤の父はその返済をどのように工面するか思案しなければならない立場にありました。「藩借延期の談判」というのも、場合によってはロールオーバー(金融用語で決済期限の繰り延べ)となることもあり、彼は職業柄こうした場面で折衝しなければなりませんでした。では、中津藩がどこから金を借りていたかというと、後に財閥になる加島屋や鴻ノ池のような組織です。福澤百助はこうした相手に対して非常にやっかいなネゴシエーションをしなければならない役に就いていました。息子・諭吉の評価によると、父はそういう仕事を全く喜んでおらず、当人は「漢学者」として、一生読書をしていられればおそらくハッピーだったのだと思いますが、そういうわけにはいかなかったようです。

次の引用も父・百助のエートスを物語るものだといえましょう。

「怪(け)しからぬ事を教える。幼少の小供に勘定の事を知らせると云うのは以ての外だ。斯(こ)う云う処に小供を遣(や)て置かれぬ。何を教えるか知れぬ。早速取返せと云て取返した事があると云うことは、後に母に聞きました」

ここで回想されるのは子供に教育を施すこと、とくに当時福澤家が暮らしていた大阪で、商いの手習いとして九九の類を教えることなどに対する百助の言葉です。私は江戸と大阪での商人教育の違いはよくわかりませんが、福澤の父は大阪の教育について、「怪しからぬ事を教える」と言っています。「勘定」は金勘定一般のことを指しますが、広く経済一般のことも含意されていたようです。商人が多い大阪では早いうちから金勘定に聡い子供が育つことについて、福澤の父が批判的な視線を投げかけていたことを、福澤の記述を通じて知ることができます。

「入組んだ金の事はみんな人任せにして」

では、福澤本人は帳合(簿記や会計)についてどのように考えていたのか、それが窺われる部分を『福翁自伝』から見ていきます。まず、簿記や財務の実際に関して次のような一節があります。

「私は維新後早く帳合之法(ちょうあいのほう)と云う簿記法の書を飜訳して、今日世の中にある簿記の書は皆私の訳例に傚(なら)うて書たものである。ダカラ私は簿記の黒人(くろうと)でなければならぬ、所が読書家の考と商売人の考とは別のものと見えて、私はこの簿記法を実地に活用することが出来ぬのみか、他人の記した帳簿を見ても甚だ受取が悪い。ウンと考えれば固(もと)より分らぬことはない、屹(きっ)と分るけれども、唯面倒臭くてソンな事をして居る気がないから、塾の会計とか新聞社の勘定とか、何か入組んだ金の事はみんな人任せにして、自分は唯その総体の締て何々と云う数を見る計り」

最初に「帳合之法」が出てきますね。「簿記法の書」を翻訳したと述べているように、福澤は簿記、会計を日本に紹介した人物でもありました。今世の中にある簿記の本はすべて自分の訳例に倣って書かれており、自分が出発点にあると言っている。もちろんそう言っているのは『自伝』執筆の時期ですが、このことに強い自負を持っていたことが窺われます。実際、福澤の晩年、明治後半になると簿記や会計、財務、経済全般についての考え方も格段に進んでいました。

このように福澤は簿記を重んじていましたが、ここでは読書家の考え方と商売人の考え方というものが対置されていることにも着目したい。引用文の4行目以降には福澤の「旧秩序」、あるいは私の勝手な表現では「旧理念」に囚われた部分が表出しているのではないかと思います。なぜなら、冒頭で紹介した甥の中上川宛ての書簡にある「学で富み」かつ「富て学び」ということが、福澤の新理念を表現しているとすれば、この引用文では、それとはかなり違った見方をしていることになるからです。福澤の中の旧理念が思わず表れてしまったと言えるかもしれません。

ここで福澤は簿記の玄人でいなければならないと言いながら、自分のことを「他人の記した帳簿を見ても甚だ受取が悪い」とも語っています。これは今風に言うと、財務諸表や貸借対照表をパッと見て、会社や組織の経営状態がすぐに頭に浮かぶタイプではないということだと思います。理解が伴わないのをはっきり感じ、若干負け惜しみがあるのかもしれません。「ウンと考えれば固より分らぬことはない」と言っていますから。「総体の締て何々」と語っているので、自身の事業については概評の報告を受けて、福澤自身はそれで良しとしていたということのようです。

ところで、今引用した箇所では2つの組織が挙げられています。1つは言うまでもなく、今私たちがいる慶應義塾の会計。もう1つが新聞社、これは時事新報の勘定だと思います。これらの「入組んだ金の事はみんな人任せにして」いたというのは、実際にそのとおりだったのでしょう。福澤は簿記の導入者を自認してはいるものの会計の委細は理解しない、もしくは関心がないというのが基本的なスタンスだったのでないかと推察されます。

新旧両理念の併存

次に投資あるいはお金の運用について福澤はどのように考えていたかを見ていきたいと思います。

「例えば塾の書生などが学費金を持て来て、毎月入用だけ請取りたいから預けて置きたいと云う者がある。今の貴族院議員の滝口吉良(たきぐちよしろう)なども、先年書生の時はその中の一人で、何百円か私の処に預けてあったが、私はその金をチャンと箪笥の抽斗(ひきだし)に入れて置て、毎月取りに来れば十円でも十五円でも入用だけ渡して、その残りは又紙に包んで仕舞て置く。その金を銀行に預けて如何(どう)すれば便利だと云うことを知るまい事か、百も承知で心に知て居ながら、手で為(す)ることが出来ない」。

福澤は「学費金」と呼んでいますが、かつての義塾では塾生が一定の授業料プラスアルファを塾、つまり福澤に預けておき、毎月必要な分だけそこから受け取らせる制度があったようです。

滝口吉良の他にもこういう塾生はたくさんいたのでしょう。塾生が当時義塾、または福澤に預けていたお金があり、それが適切かどうかはさておき、それらを元に資産運用することができたことは福澤も述べているとおりです。銀行に預ければいくばくかの金利が期待できることは彼もよくわかっているのです。

注目したいのは、最後の部分で、福澤が銀行に預ければ便利だと心ではわかっていながらそれができないと述べているところです。これは非常に含蓄がある言葉だと思います。というのもここには福澤の新旧両理念の併存というものが非常にヴィヴィッドに表れていると思うからです。「心に知て居ながら」という表現からは、資産運用によるメリットを理屈では理解していると解釈できます。ところがそれを「手で為ることが出来ない」。実際にはそういう投資行動を実行に移すことができないということですね。

これは経済行為に限らず、人間の行動とは頭で理解することと、それが身体に染み込み、表現として現れることは明らかに別のものであるということです。後者については、最近「身体知」と言われるようになりました。「身体が持っている知」というものを重視する考え方ですが、福澤は頭で理解することと、実際の行動としてそれが現れることはやはり違うとここで述べているのです。

次の引用も投資の話になります。今引いた部分と同工異曲とも言える部分です。

「金融家のエライ人が私方に来て、何か金の話になって、千種万様、実に目に染みるような混雑な事を云うから、扨(さ)てさて 如何(どう)もウルサイ事だ、この金を彼方(あっち)に向けて、彼(あ)の金は此方(こっち)に返えすと云う話であるが、人に貸す金があれば借りなくても宜(よ)さそうなものだ、商売人は人の金を借りて商売すると云うことは私も能く知て居るが、苟(いやしく)も人に金を貸すと云うことは余た金があるから貸すのだ、仮令(たと)い商売人でも貸す金があるなら、成る丈(た)けソレを自分に運転して、他人の金をば成る丈け借用しないようにするのが本意ではないか、然るに自分に資本を持て居ながら、態々 (わざわざ)人に借用とは入らざる事をしたものだ」

ここもまた、非常に興味深く読める部分だと思います。「金融家」というのは投資活動に通じた金融の専門家であり、簡単に言えばバンカー(銀行家)ということでしょう。その人物が福澤のところにやって来て、おそらく投資を勧めたり、その意義を説いたことがあったのでしょう。「混雑な事」とは面倒なこと、うるさいことですが、その金融家が、こうやれば収益が上がる、こうやるとうまくいかない、だから福澤先生もこのようにやったらいいのではないか、ということを懇談した。しかし、福澤は非常に面倒くさくうるさい話である、と言うわけですね。

それに続けて述べているのが、人から借りたお金を運用することについてです。預金という形で他人からお金を調達し、それを、若干の金利を上乗せして融資することが銀行業の本質の1つですが、福澤は、人に金を貸すという行為はそもそも余った金があるから貸すのだ、と非常にはっきりとした言い方をしています。つまり、余剰資金を他人に貸すという行為については、彼も合理的だと考えていたわけですが、他人から借用した金を使ってまで運用するということが、彼の価値観の中では合点がいかなかったのではないかと思うのです。

この話は様々な解釈ができると思いますが、福澤はとにかく借金をすることが異常に嫌いな性分で、生来そういうことはしてこなかったと『福翁自伝』でも再三述べています。

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