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【講演録】子どもを育む遺伝の力、環境の力

2020/04/14

すべての大人は代弁者

小児科医は「母性の代弁者」

最後に、代弁者についてお話をします。まずは私たち小児科医が代弁者だというお話から。病気を治すだけが私たちの仕事ではありません。

もともと代弁者(Adovocator)とは、アメリカ小児科学会からきた考え方です。具体的には、物言わぬ子どもたち、あるいは若いお父さん、お母さんたちの思いを政治に反映させたり、メディアを通じて広く訴えかけたりする代弁者です。彼らの言う代弁者を、私は「父性の代弁者」と呼んでいます。

その意味では、福澤先生が自分の意思を多くの人々に伝える方法として「文書ではなく話し言葉でやってみよう、日本語でもできるはずだ」と始められた明治七年の頃の「演説」は、父性の代弁者になろう、という試みであったのではないかと思います。

一方で、代弁者には、「母性の代弁者」という側面があると思います。小児科医には、父性を発揮するばかりでなく、母性を発揮して子どもやそのご家族の代弁者となることが求められているのだと思うのです。

「傾聴力」と「説得力」

母性の代弁者になるためには2つの力、「傾聴力」と「説得力」が必須です。「傾聴力」とは、「聴」の字のとおり、耳を澄ませ、目を配り、心を寄り添わせて相手の立場になり、共感力を発揮して情報を引き出す力です。これは、大人を診療する内科や外科でも同じですが、とりわけ小児の場合、相手は、自分が抱えている困難をよく把握できない、自分が虐待を受けているという事実すら正しく理解できない子どもたちです。あるいは、夫が子どもに手を上げる理由を理解できず、しかしそれを見守るしかない母親です。それらの困難は、口止めされていること、恥ずかしくて言えないこと、大事ではないと思って適当に答えていることの中に潜んでいます。それらを正しくグッと引き出す力が必要で、それを傾聴力と呼びます。これは、臨床経験という実体験がないと、絶対に身につきません。

次に「説得力」ですが、その前に1つやることがあります。それは、「判断する」という行為です。医師が判断すること、決めることは、実はたった2つしかありません。診断をつけること、そして治療方針を立てること(治療しないという判断も含めて)です。判断を患者さんに任せてはいけません。2つ以上の治療方法を提示して、「どちらを選びますか」と患者さんに選ばせることが良しとされる場合もあるようです。一見、公平なように思えますが、多くの場合は避けるべきことと私は思います。話を十分に聞いたら、その患者にとって一番よい治療法は医師が選ぶべきです。決めたからには、それについて相手を説得する義務がある。それが私たち医師の仕事です。「独立不羈(ふき)」とはそういうことだと思います。自分で考え、自分で決めて、実行に移せ。自分で判断したことを患者さんに納得していただくために、「説得力」が必要になります。

患者さんを説得するにはいろいろな力が必要となりますが、まずは「傾聴力」です。つまり、自分の話を「なるほど、そうですか」と聴いてもらえた。自分でもどう表現してよいか分からなかった苦しみを、「こういうことですか」と翻訳してもらえた。初対面の医師との対話の中で、「この先生は本当に自分の話を聴いている」「言われてみれば、自分の曖昧模糊とした不安はそれだった」「この医師は信頼できる」と納得すれば、その時点で診断や治療方針を受け入れる準備ができているのではないかと思うのです。

反対に、検査データを手渡して、説明文書を読み上げ、ここに署名してくださいというような文書によるやり取り、「演説」が生まれる以前の文書によるコミュニケーションに逆戻りするような医療は、今後は許されなくなるでしょう。文書による同意取得は、AIでもできることです。またデータに基づく診断や治療方針の決定も、AIでほとんど片がつきます。しかし、AIが決めたこと、それも厳しい診断、辛い治療を受け入れられますか。1対1で面と向かって説明され、討論し、その結果、相手の医師から出た言葉だからこそ、納得できるのではないでしょうか。

安心させることは難しい

母性の代弁者であることが何より大事だと感じさせられたエピソードをご紹介しましょう。

私たちの病院に、急に右腕を動かさなくなったという6カ月の赤ちゃんが連れて来られました。そして、脳の断層撮影をしたところ右側の大脳に影があり、それが原因の麻痺だと早合点してしまったのです。しかし、右側の脳が障害された場合は左側に麻痺があるはずです。答えは単純、「右上腕骨らせん骨折」でした。お父さんが捻じって折ったのです。洋服を脱がせてみれば、あざがいっぱいです。そのことを、お母さんは初めから知っていて、助けを求めて夜中に病院に駆け込んだわけです。脳の断層撮影などをして、いったい何になるのでしょう。お母さんの「父親の虐待が続いています。助けてください」という訴えを引き出すだけの傾聴力が医師の側にあったなら、よけいな検査もせずに、すぐに保護することができていたはずです。

ところで皆さん、最も説得が難しい病気とは何か、想像がつきますか。それは「健康」ということです。「病気ではない」と説得することが、一番難しいのです。心配だから病院に来ているのに、「病気じゃありませんよ」「治療の必要はないから安心してください」と伝える。私は、これを医療における「悪魔の証明」と呼んでいます。ないものはない、悪魔はいないと証明することは、非常に難しいことだからです。皆さん、病院で、「ご安心ください。治療の必要はありません」「でも症状はあるんです。心配です」「分かります、しかし……」と親身になって説得してくれる先生がいたら、その先生は名医かもしれませんよ。

説得力がある医師は、会ったその場で患者さんに安心感を与えます。説得力は医師にとってとても大切な力なのです。夜中の2時、40.6度という体温計の数字を見る。お母さんは、生まれて初めて119を押して救急車を呼ぶ。夜中の救急外来で、医師にとって一番大切な仕事は、母性の代弁者として温かく親子を迎え、納得できる説明をすることです。「ああ、風邪でよかった。勇気を出して救急車を呼んでよかった。優しい先生に診てもらえてよかった」という安心感を与えることです。「救急車を使わないで、自宅の車で来い」「たかが風邪、明日の朝まで待てただろう」というようなことは決して言ってはならない。分かってはいても、こういう間違いを、私も繰り返してきました。

すべての大人は母性の代弁者

出会ったその場で安心感を与えられる、説得力のある医師になるにはどうしたらいいか。説得するためには、まずは傾聴が必要であることは先ほど述べました。大事なことがあと2つある、と医学部の授業で私は述べます。まずは、「熱意」を持てる仕事を選ぶこと。熱意を持って30年、40年、小児科医なら小児科医として仕事を続けようという気持ちがあってこそ、説得力のある話ができるのです。これは、新米の医師にもできることです。しかし、もう1つ、若い医師がすぐにはどうしても手に入れることができないものがあります。「経験」です。もし、私の話が多少なりとも説得力を持つなら、それは数十年の経験から物語るという後ろ盾があってこそです。

では、どのような経験を積めばよいのか。難しい病気を診断したり、重い病気を治療したり、成功体験を多く積むことで、医師の説得力は培われるのでしょうか。いいえ、成功体験しか積んでこなかったと思い込んでいる医師には、自慢話しかできません。自慢話に説得力はありません。失敗談にこそ説得力があるのです。もちろん、患者さん相手に大きな失敗をすることは避けるべきですが、大切なのは、知らず知らずにおかした小さな失敗(「ヒヤリハット」と言います)を見逃さないことです。先ほどの「子どもが腕を動かさない」と不安げに言ったお母さん。顔つきを注意深く見て、「お母さん、あなたの右頬にあざがありますね。ご主人、左利きですか」と。お母さんも殴られていることがありますから。そういう目配りや心配りがあればよかったと、もし反省できたとしたら、それは非常にいい経験になります。そうした「負の経験」をコツコツ積んでいくのです。

皆さんの子育ての中にも、小さな失敗はたくさんあると思います。満点の育児などあり得ません。「ああ、叱るんじゃなかった」「あんなもの食べさせちゃった」「怪我をさせちゃった」……。そうした小さな失敗の積み重ねが、そして「あなたのことでは後悔ばかり……」と振り返る優しさが、子どもに対する説得力になるのです。

最後に、今日、一番お伝えしたかったことを述べます。すべての大人たちに、子どもたちにとっての母性の代弁者になっていただきたいのです。すべての大人は、すべての子どもに対して、「寄り添う優しさ」を持ち、共感する。子どもらに「傾聴する」とは、そういうことです。その一方、してはいけないこと、すべきこと、しつけ、教育、これらは大人が決めるべきことで、子どもの言いなりになる必要はありません。大人の決めたことが、子どもに寄り添った優しさの産物であれば十分です。そうであれば、自信を持って子どもに接することもでき、子どもたちも納得するはずです。すべての大人たちが、「世の中で出会うすべての子どもたちのよき代弁者であろう」と力を合わせれば、どのような困難を背負っていようとも、すべての子どもたちが幸せな人生を手に入れることができる社会が約束されると思います。

ご静聴ありがとうございました。

(本稿は、2019年11月26日に行われた第709回三田演説会での講演をもとに一部を加筆修正したものです。)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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