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【講演録】子どもを育む遺伝の力、環境の力

2020/04/14

  • 高橋 孝雄(たかはし たかお)

    慶應義塾大学医学部小児科学教室教授

私は小児科医ですので、仕事で出会った方々は、ほとんどが子どもとお母さん、時々お父さんです。したがって、今日、私がお話しすることも、子どもたちやそのご両親から学んだことばかりです。

本日は、まず「遺伝の力」というお話をします。実は、雑誌の記事でも講演でも、タイトルに「遺伝」という言葉を使わないでほしい、とよく言われます。どうやら世間では、遺伝に対して「差別」や「取り返しのつかないこと」といった負のイメージがあるようです。そこで、私はまず遺伝という言葉にまつわる誤解を解きたいと思います。

その次に、「環境の力」についてお話しします。一口に環境と言っても、育児環境、家庭環境、学校環境に社会環境など、さまざまな環境があります。その環境の力がどれほど強いものか、素晴らしいものか、あるいは危ういものか、ということについてお話ししたいと思います。

そして最後に、「代弁者」ということについて、お話しします。私は自分なりに仕事をしてきた結果、小児科医たる者は、さらに、すべての大人は、「子どものための代弁者」であるべきだという結論に達しました。そのことを、ぜひ皆さんにお伝えしたいと思います。

小児科学の2つの側面、自然科学と社会科学

さて、本題に入る前に、「現代の小児科学」について、お話しさせてください。

私が小児科医になった頃、小児科学とは、子どもが生まれ育つ過程で遭遇する感染症などの病気を治す学問でした。ところが、ふと気がつくと、小児科学は科学として長足の進歩を遂げ、すっかり様変わりしていました。すべての医学がそうであるように、小児科学も自然科学としての観点ばかりでなく、社会人文科学としての役割が重要視されるようになってきたのです。

まず、自然科学としての小児科学は、人の体が形作られる過程(成長)とそこに機能が宿る過程(発達)を科学し、それらの異常の原因を突き止め、治療法を開発し、実際に治療を行うことを目的とします。小児科学は「成長と発達の科学」なのです。子どもが発育し、能力を身につけていく過程については以前から研究されていましたが、科学的に深く理解するところまでは到底達していませんでした。ところが今では科学の進歩により、成長と発達の仕組みが細胞レベルで解明されてきています。特徴のない細胞が次第に形を整えていき、例えば筋肉の細胞ならば動くようになる、神経の細胞であれば電気を発するようになる、といった形態形成と機能獲得の仕組みが解き明かされています。基礎医学が劇的に進歩した結果、成長と発達を扱う自然科学としての小児科学も大きな発展を遂げたのです。

次に、社会人文科学の側面から小児科学の現在の立ち位置を考えてみましょう。新聞を読むと、虐待、貧困、いじめなど、子どもを取り巻く環境に関する話題が溢れています。そして、それを何とかしようという力が社会全体に湧いてきていると思うのです。その中で、医療従事者もまた社会に根ざした職業であるべきであって、そこに小児科医の果たす役割があるはずです。

一見健康に見える子どもでも、一見幸せに見える子どもでも、すべての子どもは何らかの困難を抱えて生きていることに気づきます。これは、私が小児科医として30数年かけて、子どもたちから学んだ大事なことです。本当に幸せな子などいない、という心構えが大切だと思うのです。

遺伝子の異常や出産時の問題で生まれつき困難を抱えて生きている子どもがいます。ある夜、目を覚まして台所に行ったら、お父さんがお母さんを殴っていた、そんな困難を抱える子どももいます。あるいは、景気が悪くなってお父さんが解雇されれば、家庭の状況が急変します。もちろん、ただの風邪でも子どもにとっては大事件です。

子どもたちが抱える心と体の困難を克服するために力を貸すのが、現代の小児科学の使命です。その目的は何か。病気を克服して成長・発達を遂げるだけでは足りません。たとえ病気が克服できなくても、成長に支障があったとしても、すべての子どもたちに幸せな人生を手に入れてほしい。それが小児科学の最終目的です。そして、科学の進歩と社会の成熟のお陰で、そのような目的を達成することも夢ではなくなってきていると思うのです。

ここで、今日のお話のテーマである「遺伝」と「環境」について考えてみましょう。「成長と発達を科学すること」とは、遺伝子の役割を解明することに始まる自然科学なのです。一方、「子どもたちを幸せに導くこと」とは、子どもたちを取り巻く環境を整備する社会科学にほかなりません。すなわち、現代の小児科学は遺伝と環境にアプローチする科学である、ということになります。

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