三田評論ONLINE

【その他】
【講演録】マージナルな人間としての福澤諭吉

2019/03/19

  • 井奥 成彦(いおく しげひこ)

    慶應義塾大学文学部教授、福澤研究センター所長

創造性構築の原点

ただ今ご紹介にあずかりました井奥成彦です。本日はこのような晴れやかな場で講演をさせていただく機会をいただきまして、恐縮するとともに大変光栄に存じます。並み居る福澤先生にお詳しい方々を前にお話しするのは恥ずかしい限りですが、与えられた役割ですので任務を遂行させていただきます。

さて、私の本日の講演のタイトルは「マージナルな人間としての福澤諭吉」です。この中の「マージナル」という言葉が耳慣れないとお感じになった方もいらっしゃるかもしれません。辞書を引きますと「周辺の」「境界の」などと書いてあります。つまり、福澤先生を境界線上の人間、あるいは境界線をまたいだ人間という観点から見てみようというのが、この講演の趣旨です。

福澤先生は、さまざまな意味においてマージナルな方でした。西暦1835年に生まれ、1901年没。ちょうど、その真ん中の1868年に明治維新があり、近世と近代を33年ずつ生き、また下級武士という武士身分の周縁部に生まれ、それゆえに庶民の活動やものの考え方に通じていた。学問的には漢学から始めて、緒方塾で蘭学、その後、江戸へ出て英学を学び、洋の東西の学問に通じ、学問分野としても漢学という文系の学問から入り、緒方塾で医学という理系の学問を学んでいる。その後、幕末に3度も欧米を訪れて、西洋の社会・文化を広く見ています。

つまり、近世と近代、士と庶の両方にまたがっている。ここで「庶」と申しますのは庶民のことです。かつては日本の近世の身分制度は「士農工商」と言われていましたが、最近では農工商の間の区別はあまりなかったとされているので、「士と庶」という分け方が一般的かと思います。そして、文系と理系、東洋と西洋の境界に立ち、あるいは境界線をまたいで多様な価値観やものの考え方を学び、視野の広さを身に付け、そこから創造的思考を構築し、多事争論の重要性を唱えることになるわけです。

もっとも、こうした見方というのは、福澤研究者にとっては何も珍しいものではないでしょう。例えば、丸山眞男氏の下で学んだ石田雄氏は、その著書『日本近代思想史における法と政治』の第1章「文化接触と創造的思考の展開:福澤諭吉の場合」で、マックス・ウェーバーの古代ユダヤ教の中の一節をこのように引用しています。

「あらゆる合理的文化のそれぞれの中心地点においては、いまだかつて完全に新しい宗教思想の成立した試しはほとんどなかった。……合理的予言や諸々の宗教改革的新形成がまず最初にはらまれたのは……、文化地帯の周辺地域においてである」。

つまり、革新は中心からではなく周辺から生じるというわけです。石田氏はこうした着想から武士身分の周辺に位置し、東洋文化の周辺に位置して、西洋文化との接触を果たし、そこから創造的思考を構築した福澤諭吉を、日本の思想史において革新を起こした人物として捉えようとしたのです。

近世と近代をつなぐ

この石田氏の著書が刊行されたのが1976年で、ちょうど私が大学に入学した年ですが、私の研究史の把握が正確かどうか分かりませんが、1970年代後半から80年代前半にかけては、戦後、日本の歴史学を席巻したマルクス史学に飽き足らず、新しい方法が求められつつあった時代だったように思います。

私が大学2年生のときに履修したある授業では、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を輪読しました。また、網野善彦氏や私の恩師である中井信彦先生によって、社会史が提唱されたのもこの頃でした。さらに経済史、経営史、商業史の分野において、いわゆる「マージナル・マン仮説」が出されたのもこの頃かと思います。つまり、作道洋太郎氏らの著書『江戸期商人の革新的行動』に見られるように、商業やその経営において革新を起こしたのは、三井高利や住友政友のような武士身分と商人身分の境界にあって、両方の世界を知り、視野の広い人物であったとする考え方です。後に日本近世史の分野で吉田伸之氏らによって提唱された、「身分的周縁」論も似たような発想から出たものではないかと思われます。

私の専門は「日本の近世‐近代の経済史、経営史」です。通常「近世・近代」と言う場合は、近世と近代の間に中黒を打つのですが、私は自分で論文や何か文章を書くときには、近世と近代の間をハイフンでつなぐことにしています。その含意というのは、近世と近代をまさにつないで考えるということにあります。中黒を打つと近世と近代の間が途切れてしまうようなイメージになるように感じますので、あまり普通の近世史、近代史研究者はしませんが、私は好んで近世と近代をハイフンでつないでいるのです。これは福澤先生に倣ってというわけではありませんで、私が学部、大学院時代に教えを受けた速水融先生に倣って、近世、近代を連続する時代として、つまり近世、近代をまたいで考えることにしているわけです。

その中でも私の研究は近世から近代、そして現代へと連続して発展してきた、在来産業史、とりわけ酒造業、醤油醸造業などの醸造業を対象としているのですが、そこでも福澤先生のマージナル性に関わることがありますので、その一端をご紹介させていただきたいと思います。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事