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【講演録】マージナルな人間としての福澤諭吉

2019/03/19

尾州知多郡の醸造業

そのほか、明治18(1885)年12月15日付の『時事新報』の「尾州知多郡の酒造改良」というタイトルの社説において、明治16年春頃、知多郡の酒造家百数十名が工部省に請願し、工部大技長宇都宮三郎を招聘したとあります。そうして「化学器械学の主義」を習ったということです。「元来醸造は純然たる学問の事」で、「科学上より研究せざる可らずとの道理は宇都宮君の懇諭する所」であると、この社説の中で述べておられます。そして、明治16年秋、伊藤孫左衛門らが清酒研究所を設立したことを紹介しています。この伊藤孫左衛門という人は、亀崎という知多半島の付け根あたりにいた、当時は非常に有力であった酒造業者です。

このように何度か尾州知多郡の話が出てくるのですが、このあたりの酒造業者の子弟も慶應義塾に数多く入っていますし、そもそも尾州の知多郡、今の知多半島のあたりというのは非常に醸造業の盛んな地域でした。海洋性で、わりあいに温暖湿潤な気候で、醸造業にとって大切である微生物の作用がほどよく起こるのに適していたということもあり、酒造業、あるいは醤油醸造業、味噌醸造業、お酢の製造が広く行われていました。今、知多の半田には日本最大のお酢のメーカーで、日本のお酢の半分以上を造っているミツカンという会社があります。近年では、だいぶ醸造業者の件数も減ってきてはいるのですが、そのように非常に醸造業が盛んであった地域でした。

吉田初三郎という戦前の日本であちこちの鳥瞰図を描いて回った人がいます。吉田初三郎が描いたこの知多半島あたりの絵を見ますと、本当に数多くの酒の工場、醤油の工場、味噌の工場が描かれています。それぐらい知多半島というところは醸造業が盛んで、慶應義塾にもそこから子弟が来ていたこともあり、福澤先生は尾州の話をよく取り上げておられます。

以上のように、福澤先生は近世以来発展を続ける日本の在来産業の雄、酒造業について、一方では公正な税の取り方を論じ、他方では商標条例制定によって、酒造業者を保護することを主張し、また科学的根拠に基づく醸造を主張しています。すなわち、経験に基づいて営まれていた日本の産業と西洋の科学の理論の融合、日本の伝統と西洋科学の融合を唱えておられるのです。

濱口梧陵と福澤

次に、これはちょっと面白い、あるいは微笑ましいとも言えるエピソードが絡むのですが、醤油醸造家、濱口梧陵(ごりょう)と福澤先生とのやりとりを紹介してみたいと思います。

濱口梧陵は福澤先生の10歳年上で、ヤマサ醤油の7代目店主でした。現在の銚子のヤマサ醤油の会長で、塾員でもある濱口道雄さんは濱口梧陵の玄孫にあたられます。梧陵が店主であった時代に、江戸の市場のみならず、当時、在(地方)の経済発展を認識し、在の市場を開拓するということを梧陵さんはやられました。濱口梧陵は同店として過去最高の醸造高を記録するなど、経営者としても優れていましたが、安政元(1854)年の本籍地和歌山での大地震(安政南海地震)と津波の際に、稲むらに火を付けて回って人々を高台へ誘導し、多くの人命を救った話は、小泉八雲によってアレンジされ、さらに中井常蔵によって「稲むらの火」というタイトルが付けられ、戦前の国定教科書に載り、非常に有名になりました。

今また、その話が小学校の教科書に復活しているとのことですが、私が驚きましたのは、ドイツの大学へ集中講義に参りましたときに、向こうの学生から、ドイツの中学校の教科書にその話が載っているという話を聞いたことです。海外でもこの話が知られていると耳にしたことはありましたが、せいぜいアジアの範囲だろうと思っていたのが、ドイツでも知られているとなると、今やこの話は世界的に有名になっているのかもしれません。

しかし、多くの人命を救ったことはそれ自体すごいことですが、この人の偉いところはそれにとどまりません。助けられた人たちが、その後の生活がままならない中、津波で家を失った人に家を建てて与え、農具を失った農民に農具を調達して与えるとともに、以後の津波に備えて、莫大な私費を投じて大堤防(広村堤防)を造るという一大事業を行いました。その際には多くの村人を雇い、賃金も支払ったとのことです。このときはヤマサ醤油店のお金も相当つぎ込んで、店の者たちは「経営が立ち行かなくなるのではないか」と気を揉んだという話が残っているほどです。この堤防は今なお健在で、約90年後に起きた昭和南海大地震の際には見事に津波を防いでいます。

梧陵さんはそんな人ですから、地元の人たちから生き神様と崇められていました。本人は「そんなことは言わないでくれ」と頑に拒絶をしていたのですが、地元の人たちから非常に慕われました。明治18(1885)年、彼がアメリカで客死したときは福澤先生は大変嘆き、当時アメリカにいた息子の一太郎に「濱口氏は若い頃から世のため、人のために尽くした。私は悲しくてしょうがない」という内容の手紙を送っています。そして、勝海舟らとともに横浜港まで亡き骸を迎えに行っています。

濱口梧陵は幕末に、地元和歌山広村に耐久社という学校をつくりました。これは今、町立の耐久中学校と県立の耐久高等学校になっています。そして、維新後、こちらは今はありませんが、共立学舎という英学校をつくって福澤先生を教師として招こうとしたのですが、福澤先生はそれを断ります。先生は「和歌山で英学校はまだ早い。まずは日本語で教育を」とおっしゃるのですが、本質的には地方の人材育成に貢献しようとする濱口と、中央で人を育てようとする福澤先生の方向性の違いではないか、と私は思っております。

実際、濱口は明治維新後、大久保利通に見込まれ、政府に駅逓頭という、今で言えば総務大臣に相当する役職として政府に入り、切手の制度など、近代的な郵便制度を打ち立てますが、3週間で辞めてしまって和歌山に戻り、以後、地元の教育や政治に勤しむことになったわけです。

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