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【講演録】マージナルな人間としての福澤諭吉

2019/03/19

福澤諭吉と酒造業の関わり

福澤先生の生きておられた時代の酒造業は、日本の工業部門の中で最も主要な産業でありました。これには意外な印象を持たれる方もいらっしゃるかもしれませんが、例えば明治7年の府県物産表に見られる工業製品——もっとも工業製品と言いましても、この時代はほとんどすべて手工業という時代ではありますが、——その中で酒類の生産額が1位で、2位の綿織物、3位の醤油、4位の生糸などを大きく引き離していました。

また、これは余計なことかもしれませんが、福澤先生ご自身、お酒が非常にお好きな方でいらっしゃいました。晩年になりますとご健康を気遣って、やめられたりということがありましたそうですが、若い頃は非常によく飲まれたようです。

そして、門弟にも多くの酒造業者の子弟がいました。醤油醸造業もそうですが、酒造業もある程度の規模でやろうとしますと、当時は非常にお金が掛かった産業ですので、どうしても裕福な家が経営するということになります。そうした家の子弟が、慶應義塾にたくさん入学していたということです。ですから、福澤先生の周りには酒造業者の家の子供や、あるいは醤油醸造業者のお宅の子供などがたくさんいました。

その福澤先生が明治10年代、著書である『時事小言』や、自ら創刊した新聞『時事新報』において再三、酒造業について言及しておられます。明治14(1881)年刊の『時事小言』の中では、尾州(尾張国)知多郡の酒造業の事例を挙げ、天保9(1838)年の盛田久左衛門の酒造改革について述べておられます。

尾州知多郡と書いていますが、明治14年当時は既に愛知県という県は存在していたわけですが、まだ一般的には「尾州」と旧国名で呼ぶようなことが一般的に行われていました。明治30年代あたりでも郵便が「尾張国○○」という形で届くこともありまして、まだまだ一般的には旧国名で呼ぶ慣習が通用していたような時代です。

ちなみに、盛田久左衛門さんのお宅はソニーの盛田昭夫さんのご実家にあたる家です。ご実家は酒造業や醤油醸造業、味噌醸造業を経営しておられ、今なお健在でありますけれども、盛田昭夫さんはこのご実家を出られてソニーを創業されたわけです。

盛田久左衛門さんの天保9年に行った酒造改革というのは、具体的にはどういうことだったかと言いますと、米を精白して、さらに造り桶と貯蔵桶を区別するということです。酒を仕込む桶と貯蔵する桶の区別を、どうもそれ以前ははっきりとしていなかったようで、両者を区別することによって、酒を腐敗しにくくした。それとともに仕込む水の量を増やして、洗練された味にするという改革を天保年間に盛田久左衛門さんが行ったということです。つまり、それまでは水の量も少なかったので、わりあいドロッとした濃いお酒だったようですが、水の量を増やすことによって、すっきりとした味にしたということです。

こういった改革によって、酒の品質が「伊丹などの醸造を除けば天下一流になった」と『時事小言』には書かれていますが、仮に全国的に、この改革前の方法で酒造を行っていたら酒造税収入が十分に得られず、今頃は国家財政にとって3,400万円の損耗になっていただろうと福澤先生は述べておられます。これは当時の国の歳入からすれば、約半分ということになるそうです。

このように福澤先生は、盛田久左衛門さんの酒造改革を非常に高く評価しておられるのですが、しかし、同時にこのように述べているのです。

「この方式の改革をもって国益を為したるの事実は誠に明白なれども、その改革を施すの際に一句の論理を用いず、一条の原則を知らず……学問の主義を活用して……化学の原則に照らし、あたかも酒造のことをその規則中に束縛して始めて満足すべき」である。「物理実学の目的はこの原則を知って、これを殖産の道に活用するにある。……一国の貧富はこの殖産のことを学問視すると否とにあって、存するものと知るべきなり」。

このように、酒造の改革は結果がよければよいというものではない。科学的に説明できるものでなければならないと、理論と実際の融合、酒造という日本的なものと西洋の科学の融合を訴えておられます。福澤先生も日本の酒造業、特に盛田さんの改革を評価するのですけれど、一面ではこういう厳しい指導といっていいような言葉も投げ掛けていらっしゃる。

酒造税問題と酒造家の保護

次に明治16(1883)年の7月9日、11日の2日にわたって『時事新報』に掲載された社説「酒造家ノ状況」において、福澤先生は国財を増加させるのに、「酒税に依頼する」のが最も容易であるし、酒屋一統は決して酒税の増加するのを好まないが、政府が酒屋の事情に通暁して、実地に適応した方法で税を取れば、たとえ税額が増加してもよしとするだろうと述べます。その方法とは、具体的には酒の造り桶の寸法の測り方を改善することが1つ。それから、「滓」と呼ばれる桶の中の不純物を除去後に検査を行うことがもう1つであると述べています。

当時の酒造税というのは醸造石高という、いわば外形に対して課されていました。つまり、酒造業者の収益に対して課税をするのではなく、どれだけ造ったかということに対して税が掛かるシステムでした。その醸造石高を役人が計測するのに、桶の寸法を大きめに測ったり、あるいは酒造中に発生する不純物である滓が除去されておらず実際のお酒になる量よりも嵩の多い状態のときに仕込み石高を計測するといったことが行われ、酒造業者の反発を買っていました。そこで、このような従来の役人の醸造石高の計測の仕方の問題点を改善しなければいけないと言うのです。

それからもう1つ、3番目として、酒税を納める時期を延期することも述べています。具体的には現行の4月、7月、9月の3回を、それぞれ6月、8月、10月にすることを主張しています。4月というのは原料代の支払いがある時期に重なります。そして、お酒というのは、ご存じのように冬の間に造られているので、春まで造っていたお酒がまだ十分に売れていない4月という時期は資金が逼迫するから、その時期を避けて、製品が売れて資金が充実している6月に納期を延期すべきだと述べています。こういった主張の背景として、酒造税が当時、倍、倍と増えていき、前年には酒造税増税に反対する酒屋会議が開かれていたという事情がありました。

さらに、それに続く同年、明治16年の7月12日、13日付の『時事新報』では「酒造業を保護すべし」という社説を掲載しています。これは贋造、摸製、密売、脱税といった悪い行為をする業者から、善良なる酒造業者を保護せよというもので「かつて贋造摸製を企てたる者なきは……法律の保護を受けたるに由る」と述べます。つまり、近世には、例えば伊丹の酒造は領主であった近衛家が制度によってそれを保護していましたが、維新以後、領主制の廃止とともにそういった制度もなくなり、酒造業はいわば無法状態になってしまっていたわけです。

だから、今、欧米諸国で行われている専売免許商標条例に倣って、適当な法律を設けて、善良な酒造業者を保護すべきである。酒造業は今日最もよい税源で、地租を除けば日本政府の歳入の最大部分を占め、あるいは、これを凌駕する見込みのあるほどのものだから、その営業の保護は1日も猶予できないとしています。なお、商標条例は翌明治17(1884)年に制定されました。また、明治33(1900)年には、酒造税は地租を抜いて国税の第1位になっています。

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