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【講演録】マージナルな人間としての福澤諭吉

2019/03/19

「品物にておまけ」する

この頃にはヤマサの店主も次の代に引き継いでいたのですが、濱口梧陵は英学校を開校するにあたって、そこで用いる英語のテキストを福澤先生に注文しました。そうすると、福澤先生から次のような返事が返ってまいりました。「30両のご注文、120部のところ、たくさん御用仰せ付けられ候につき、精々相働き、品物にて3割引き156部納め奉り候。……36部は品物にておまけに差し上げ申し候。則ち定価3割引きなり」ということです。

なかなかウィットの利いたといいますか、面白い手紙だと思います。つまり、濱口梧陵は福澤先生に30円でテキスト120冊を注文したのですけれども、先生は156冊も送った。実質3割引きですと言っている。こういったウィットに富んだ対応も、武士身分の周縁に位置する家の中で、子供の頃から大阪の商人の話などを聞いて育った福澤家のマージナル性から出たものではないかと思います。

そういうお金にまつわる話では、後の時代ですが、阪急電鉄や宝塚歌劇を創立した小林一三と福澤先生の非常に面白いエピソードが1つあります。小林一三という人は、ろくに学校にも来ないで毎日演劇を楽しんでいるような学生生活を送っていました。彼は文芸部に所属して文芸雑誌を発行したりしていたのですが、あるとき、発行するのにお金が足りなくなったので、福澤先生のところに借りに行こうと訪れました。先生はそれに対して「人からお金を借りて発行するようなことをしてはいかん。お前に貸すお金はない」とけんもほろろに断りました。すごすごと小林一三が帰ろうとすると「ちょっと待て。お前に貸す金はないが、やる金はある」と言って、その当時のお金で確か10円だったかと思うのですが、与えたということです。小林一三は感激して、涙が止まらなかったということですが、そのような、なかなか格好いいと言えば格好いいエピソードもあります。

そのほか、福澤先生は明治2年、書林組合に加入する必要が生じたときに「福澤屋諭吉」という屋号で登録しています。これは先生のマージナル性を象徴するような名前と言えるのではないでしょうか。

幕末・明治の外国人の日本観

もちろん、自分が属する文化の境界に立って異文化に接触した人の誰もが創造的思考にまで到達できたというわけではありません。冒頭で紹介した石田氏は、その著書の中で「福澤諭吉以外に漱石や荷風のような敏感な文学者が、この後、異文化に接した経験を日本文化と西洋の文化とその双方を鋭く見る眼に生かしているほかは、多くの例を見出すことができない」と述べておられます。異文化に接触して、その機会を発展的に生かせたということは、やはり福澤先生がいかに優れていたかということでしょう。

石田氏は一方、次のようなことも述べておられます。「強国の側から、あるいはより発展した国の側から一般により遅れていると言われる国との間に、創造的な文化接触を成功的に行った例が果たしてあるか」。私はこの問い掛けに対し、福澤先生の生きていた時代に日本文化に接した外国人の何人かを思い浮かべてみました。

例えば、マシュー・カルブレイス・ペリー。あの日本を開国させたペリーは1853年、54年に来日しましたが、ただ強圧的に日本を開国させただけではありませんでした。彼は鋭い目で日本の社会を見ていたのです。その著書『ペルリ提督日本遠征記』(弘文荘)の中で次のように述べています。

「日本の手工業者は世界におけるいかなる手工業者にも劣らず練達であって、人民の発明力をもっと自由に発達させるならば、日本人は最も成功している工業国民にいつまでも劣ってはいないことだろう。他の国民の物質的進歩の成果を学ぶ彼らの好奇心、それらを自らの使用に充てる敏速さによって、これら人民を他国民との交通から孤立せしめている政府の排外政策の程度が少ないならば、彼らは間もなく最も恵まれたる国々の水準にまで達するだろう。日本人が一度文明世界の過去および現在の技能を所有したならば、強力な競争者として将来の機械工業の成功を目指す競争に加わるだろう」。

まだ機械の「き」の字もないような当時の日本でしたが、果たしてペリーの見立てどおり、この後、日本は急速な工業化を果たし、やがて経済大国と言われるまでに成長したのです。私もペリーという人物は、非常に強圧的に日本を開国させた人とずっと思っていましたが、こういったことを言っていることを知ってから、すっかりペリーファンになりました。ただ、ペリー自身はこのとき病気を患っており、この機会を何らかの形で次の段階へ生かすまでには至らず、初来日から5年後の1858年に63歳で亡くなってしまいました。ちょうど日米修好通商条約が結ばれる直前でした。

次に幕末、開国後の日本を2度にわたって訪れたイギリスの植物学者、ロバート・フォーチュンを見てみたいと思います。彼は世界各地で植物を採集して回って、他の地へ移植するなどしましたが、ことに中国からインドへお茶をもたらし、インドをお茶の一大生産地にするという世界史上に残る大変な仕事をした人と言ってもいいかと思います。フォーチュンは日本からも多くの植物を本国に持ち帰って移植していますが、その代表的なものとして柑橘類のキンカンがあります。その彼が『幕末日本探訪記—江戸と北京』(講談社学術文庫)の中で、日本について次のように語っています。

「私は世界のどこへ行っても、こんなに大規模に売り物の植物を栽培しているのを見たことがない。……盆栽を作る技術は……植物生理学の最も普遍的な原則の1つが基礎になっている。……もしも、花を愛する国民性が人間の文化生活の高さを証明するとすれば、日本の低い層の人々はイギリスの同じ階級の人たちに比べると、ずっと優って見える。……日本の人々が自国の進歩に有用なことが分かると、外国の方式を敏速に取り入れる」。

盆栽に関しては、もちろん当時の日本人は科学的な理論に基づいてというわけではなく、経験に基づいてやっていて、それが結果的に理に適っていたということでしょうけれど、日本人はそういう西洋の理論を知らずに盆栽を進歩させていたわけで、フォーチュンのような、西洋の理論を知っている人から見ると、結果的には理論に合ったことをやっているように見えたのでしょう。

そういった意味では、福澤先生が日本の醸造業に感じていたことと同様のことを感じていたと言えるかと思います。福澤先生の場合は経験はあるのに理論が伴っていないことを不満に思い、厳しく評価していますが、フォーチュンはそれを好意的に評価し、「理屈は伴っていないけれど、やっていることはすごいではないか」という目で見ていたという感じがします。そして、日本人が外国の有益な方式を迅速に取り入れるというところは、ペリーと同様のことを感じていたと言えましょう。

マージナル性が育んだ視野の広さ

そのほか、幕末から近代初期にかけて日本を訪れた多くの外国人が日本での記録を残していますが、大森貝塚を発見したことで知られるアメリカの動物学者、エドワード・シルベスター・モースも忘れることができません。

彼は、著書の中では日本のことを高く評価しているのですが、特に日本の職人の技術とか手工業技術の高さ、それから日本の文化のレベルの高さ、あるいは衛生面での清潔さといったことを非常に高く評価しています。彼が日本文化をいかに高く評価していたかについては、彼の詳細な記録『日本その日その日』(平凡社東洋文庫、講談社学術文庫)という本から知ることができます。彼は日本の学会に様々な恩恵をもたらし、国から叙勲までされています。彼が収集した日本の民具などのコレクションは、アメリカ・ボストン近くのピーボディ・エセックス博物館で見ることができます。

また、日本の文化に接触することで、西洋の側に何らかの創造や革新が起きた例として、日本の開国と万国博覧会への出品を契機として、19世紀ヨーロッパで一大潮流となったジャポニスムを挙げないわけにはいきません。このことも非常に重要なことではありますが、時間の関係でそれを挙げるにとどめさせていただきます。

以上、私の今日のお話は決して珍しいお話ではないと思いますが、とかく1つの考え方に偏り、多様な観点を認めようとしなくなっているように思える昨今の世の中の状況を見るにつけ、福澤先生のマージナル性から来る視野の広さや、多様な価値観を認め、多事総論を通じて新しいものの考え方を構築することの重要性を再認識することは意義あることではないかと思い、お話しさせていただきました。また、福澤先生のお誕生日に当たって、いくつかのエピソードを通じてそのお人柄を偲ぶこともできたのではないかと思います。

ご清聴有り難うございました。

(本稿は、2019年1月10日に行われた第184回福澤先生誕生記念会での記念講演をもとに構成したものです。なお引用文献について、読みやすさを考慮し、一部表記を改めたところもあります。)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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