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【慶應看護100年インタビュー】戦時に小泉信三先生を看護して

2018/12/20

「愛スルモノハ強シ」

——先生の退院後はお会いになられたのでしょうか?

加藤 チフスの疑いで大久保病院に入院したあと、療養を兼ねて昭和20年の12月から翌年の3月まで月ヶ瀬(温泉療養所)に行き、帰ってきましたら、「小泉先生から自宅に来るように、という言付けを頼まれているから行ってきなさい」と言われました。先生は12月に退院されて、ご自宅で療養されていたのですね。焼け野原の中を都電で先生のお宅に行きました。

お玄関を入り、左の広い廻り階段を2階に上がりましたら、そこで先生が待っていらっしゃって「ああ、よかったね、元気になって」と言われて。そこで先生の『アメリカ紀行』のご本にサインしてくださって、「読んでください」といただきました。その後、皆さんでお食事をいただいて。

そのとき高梨さんが付き添い看護婦としてご自宅に住み込んで働いていたんです。ずっと付き添っていかれたんでしょうね。もうご自身で歩けるようになっていらっしゃいました。

私はその後、違う病院に勤務しましたのでお会いしていませんが、平松キツ子さんと野澤芳子さん(ともに28回生)から聞いたお話では、小泉先生はその後外来で慶應病院にいらっしゃると、三田さんや戸村さんのところに必ずお立ち寄りになられたそうです。

受付の前で待っていらして、三田さんが患者さんを呼びに廊下に出てきた辺りを見計らい、「こんにちは」とせいぜいお声をかけられる程度だったそうです。「三田さんも元気でいるかな」という気持ちと同時に、「僕もお蔭さまで」という気持ちなんですね。余計な話はなさらないとのことでしたね。杖をつかれていて、立ち止まるときは必ず杖は真ん中に持ってくる。そういうご配慮がすごくて、私たちが心配することを、見抜いて気を遣ってくださる先生だったとのことです。

——小泉先生のお人柄が偲ばれますね。小泉先生は昭和32年に慶應看護の行動の指針という形で、「愛スルモノハ強シ」という色紙を寄せてくださっています。きっと皆さま方の献身的な看護が強く心に残っておられたことだろうと思います。本日は貴重なお話を本当にありがとうございました。

(追記 本インタビューに当たっては、小泉信三先生二女の小泉妙氏の了承を得ました。その際、「歩けるようになってもよろよろで歩き始めがなかなかできないときに、「先生もっと気を大きく持って」と看護婦さんが言って下さった。とてもいいことを言って下さったと思うの。本当に良くして下さった」と話していました。)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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