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【慶應看護100年インタビュー】戦時に小泉信三先生を看護して

2018/12/20

お味噌汁が澄むのに気を遣う

——加藤さんが専属で付かれてからのエピソードはございますか。

加藤 新聞は1人でお読みになれるようになりましたが、お食事は全部介助しました。退院間際までお箸や茶碗は持てなかったのですね。

お食事のときには上半身を起こし、グルッと回して先生があぐらをかくような感じにして、後ろにお布団を敷いて、食べていただきました。ご自分で起き上がることはできませんでした。

日下部さんが「先生に言われても鏡だけは見せないように気をつけて」と言っていたんです。お食事のときに、時間がたつとお味噌汁がだんだん澄んできて顔が映るんですよね。ですから一番底に箸を入れて、そっと一回りかき混ぜてから先生に差し上げていたんです。何日かして、「加藤さん、いろいろと気を遣ってくれてありがとう。でもね、僕は自分の顔をもうわかっているから、そんなに気を遣わないでいいよ」とおっしゃったんです。

だから見抜かれちゃったの(笑)。「先生、申し訳ありません」と言ったんですけど、「心配してくれてありがとう」と何度もおっしゃいました。

先ほど守秘義務が徹底されていた、とお話ししましたが、その中で日下部さんのことだけ知っていたのは、彼女が小学校の同級生で大変仲が良かったからなんです。だから、「あなたが小泉先生のお世話をするなら」と細かな注意事項も引き継いでくれたのです。

戦後、先生が皇太子殿下の御教育係をなさっているニュースを見て、「ああ、先生良かった」と思いました。表にお出になれるようになったんだと思って。「僕はもうとても外には出たくない」っておっしゃっていましたので。ご自分の顔をよくわかっているからと。

——どんな病院食を食べられていたんですか?

須田 最初の頃は流動食だったんでしょうけれど、私が付いた頃はご飯は白いお米でしたよ。

加藤 よく覚えていませんけれど、おかずも付いていましたね。私たちも食事がないということはありませんでした。ただ、大根や、長いこと水に浸かっていたようなサツマイモで、味がなくて、ザクザクで大根みたいになってしまったものでした。

だから、かえって大根を食べた方がおいしい(笑)。それが常食として、私たちの食事には出ました。後は、と言って、小麦の皮の粉をパンのようにしたものを私たちは食べていましたが、患者さんにはきちんとご飯が出ていたと思います。

須田 そう、もう本当に「ミズイモ」だけは食べたくないね(笑)。

——10月になると、小泉先生は包帯はもう取れていたのですか?

加藤 包帯はもうありませんでした。治療はマッサージだけでした。日勤では午後から食事休みの後、2時間、火傷を負った顔から手へとマッサージを始めました。その当時コールドクリームなんて、買おうと思ってもどこにもなかったんですけど、さすがに先生のところには揃っていました。

それから歩きませんから、脚の筋肉をつけるために脚もマッサージをしました。夜勤もお食事が済んだ後から2時間マッサージというのが、私が行ってからのメインの仕事でした。

須田 私が夜勤で先生のところに詰めているとき、「すいません、先生の休んでいるときに病室が忙しいから、手伝いに行ってよろしいですか?」と言ったら、「いいですよ」って言ってくれて。

その代わり、呼び鈴をちゃんと持たせて、「何かあったらすぐ呼んでください」と言って出かけていました。痛がることも不満を言われることもなく、素晴らしい患者さんでしたね。

病室を訪れた人々

——小泉先生の病室にはどのような方がお見えになったか覚えていますか?

加藤 もちろん、ご家族の方は始終お見えになられていましたが、学徒出陣から帰って来られた方が先生に面会したい、とよく来られました。私の頃にはそういう方のために、先生のお部屋の前に長椅子が置いてあったのです。

多い日は2、3人見えて「先生にお目にかかりたい。国を守れなかったことをお詫びしたい」と。先生のご子息は戦死していらっしゃいますから、「申し訳なかった。自分たちは生きて帰ってきてしまったけれど、先生にお詫びをして自害する」と言う方もいたそうです。

私は、そこまですごい話は聞きませんでしたが、先生に「ご面会を希望していらっしゃいますけど」と言うと、「いや、僕は会いません。丁重にお断りして、お引き取りいただくように話してください」とおっしゃられる。それをお伝えしても、「いえ、お許しが出るまで待っています」と言って、ずっと待っていらっしゃる方もいらした。毎日通ってこられた方もいました。

須田 私のときもご家族は毎日のように来られていましたね。特に次女の方(小泉妙氏)は、活発で明るくて、私は清拭(体を拭くこと)のときに手伝ってもらったりしたんです(笑)。快くお手伝いいただきましたよ。

——先生はお嬢様に手伝ってもらって恥ずかしがらなかったですか?

須田 そんなことありませんでしたよ(笑)。ご家族の写真はよく見せていただきました。枕の下にありましてね。ご家族5人が写った写真を見せて、これがうちの息子(戦死した小泉信吉氏)だと教えてくれたんです。軍服を着た写真です。「あら、先生にそっくりですね」って言ったら、「そうかい?」なんておっしゃっていましたけれど。

——そのほかに覚えておられることはありますか?

加藤 普段は常にラジオを聞いてらしたんです。夕方になりますと、英会話教室が「カム・カム・エブリバディ。ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ? ハウ・アー・ユー?」と始まるんですね。先生はいつもそれを聞いてらして、「加藤さん、これからは英語の時代だから勉強しておいたほうがいいですよ」というお話をいただきました。

普段はあまりいろいろとお話はされずに、新聞も疲れますから、すぐおやめになって。また時間を置いてご覧になると言われるものですから、ページを替えて差し上げていました。

長岡房枝さんから伺った話では8月15日の終戦の日、まだベッドから起き上がれない状態なのに天皇陛下の放送があると聞くと、「いいえ、起きます」と言って起こしてもらい、ベッドに正座をして終戦の詔書の放送をお聞きになったそうです。

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