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【慶應看護100年インタビュー】戦時に小泉信三先生を看護して

2018/12/20

  • 加藤 ミチ(かとう みち)

    看護婦養成所27回生
  • 須田 ひで(すだ ひで)

    看護婦養成所27回生
  • インタビュアー小池 智子(こいけ ともこ)

    看護医療学部准教授
  • インタビュアー山内 慶太(やまうち けいた)

    看護医療学部教授

空襲の惨禍の中で

——慶應義塾の看護教育は、1918(大正7)年医学科附属看護婦養成所に始まり、本年は100年という節目の年に当たります。慶應看護はこの100年、様々な困難を乗り越え発展してきましたが、何といっても最大の苦難は太平洋戦争中、とりわけ昭和20年5月24日未明に信濃町を襲った空襲だと思います。

この空襲では、実に信濃町の施設の6割が焼失するという甚大な被害を受けたわけですが、当時の看護婦や医師、学生の奮闘により入院患者に1人の死者も出さずに済みました。

今日は戦時に、看護婦として慶應病院に勤務していてこの空襲を経験され、また、三田の空襲で大火傷を負われて慶應病院に運ばれた、小泉信三塾長の看護チームの一員でもあったお2人にお話をお伺いしたいと思います。

お2人は27回生ということですが、慶應の看護婦養成所にはいつ入られたのでしょうか。

加藤 私たちは2人とも昭和17(1942)年の4月入学になります。卒業が戦時対応のため修業年限が短縮され、昭和19年12月に卒業、そのまま慶應病院に勤めることになりました。

もう最初から戦争でしたからね。入学して最初に階段講堂へ行ったらサイレンが鳴りました。これが最初の東京空襲(昭和17年4月18日のドーリットル空襲)だったんですね。

昭和20年になると東京で空襲が激しくなってきましたので、3月10日の下町大空襲後、木造だった本館から鉄筋の別館のほうに、だんだん診療科や入院患者が移動してきたんです。それで、空襲のときは私も別館に移った外科の外来を手伝っていたんですね。

須田 私は焼ける前は、本館の「ろ」号病棟にいました。3月10日の空襲後、空襲になったら夜でも地下道を通って本館から別館に避難できるように、「綱」が付けられたんです。

——空襲のときはどのような様子だったのでしょうか。

須田 私が担当していた内科の患者さんで、全然動けない方がいたんです。それが空襲の時はその患者さんが起き上がったんですよ。それで「大丈夫ですか?」と言って1人でおぶって、綱を辿って別館に逃げたんです。そうすれば、担架が1つ少なくなって、もう1人の看護婦が別の所へ行けますよね。別館への地下道の階段では、付き添いの奥さんに、「何段ですから、間違えないで下りてください」と言って。真っ暗なんですよ、とにかく夢中でした。患者さんだけは、無事に避難させようと思っていました。

加藤 別館に来る地下道に一番近いところが「は」号病棟で、そこの1階を救急病棟のベッドにしていましたね。その上では学生さんたちが防空当直をしていました。看護婦だけではとても間に合わないからです。

外科の外来は診察台が3つあり、1つの診察台に百目ろうそく1本で、空襲で負傷して運ばれてくる患者のアンプタ(切断)をしていました。焼夷爆弾で膝をえぐられたりすると治療ができないのです。そこで太腿の付け根のところをゴムで結んで、麻酔もしないでアンプタするんです。

須田 本当にもう、あのときほど、悲惨なときはなかったですね。最初、脚を切断するのは膝から下だったんですね。それで「大丈夫か、重いぞ、ひっくり返らないでくれよな」って先生が言うから、「膝から下だから、1人で大丈夫です」って持ってみたら、とんでもなく重くて下に落としてしまった。「脚ってこんなに重いんですか」と言ったら、「首から上のほうがもっと重いよ」って先生に言われて。

加藤 「病室回って見てちょうだい」って言われたので、行ってみると、焼夷弾が斜めに病室に入って来る。もう大変な思いで、それをお布団にくるんで中庭に放り出したんですよね。

すると、油脂焼夷弾ですから、油がとろーっと落ちて燃えているんですよ。風が吹くと炎がゆらゆらと燃える。それで「わーっ、きれい」と言ったら怒られちゃって(笑)。

須田 とにかくすごかったですよ。来る飛行機来る飛行機、皆慶應を目指して爆弾を落としていくんですもの。雨あられというのはあのことですね。

加藤 焼けたのが収まったときに、「寮がどうなったか、見てらっしゃい」と言われて見にいったんです。道路に腰を下ろしましたら、真っ暗に曇った空の中に真っ赤な火の玉が見えたんです。「うわあ、怖い。あれ、何?」って言ったら、「お天道さまだよ」と、誰かが言った。煙が空一面の中に、お日さまが真っ赤にバーッとあったんです。

夜からずっと動き回っていましたから、時間の感覚がないんですよ。「お天道さまだ」と聞いて、腰が抜けて立てなくなったくらい。

——負傷者は別館に運び込まれたわけですか?

加藤 もう病棟も焼けていますし、「は」号の患者さんも来て別館のベッドはいっぱいですから、アンプタした患者さんは隣にあった四谷第六小学校へ運びました。学童疎開で留守でしたから。

その後も、外来で患者さんが終わると、「ちょっと手伝って」と言われて学校まで手伝いに行きました。すると暑いから、火傷の治療をしていますと、傷跡にウジが湧いてくるんです。

駐屯していた兵隊さんにドラム缶を切ってもらい、焼け残った家を壊して材木を持ってきていただいて、治療に使ったガーゼをそこで煮沸消毒して何回も使いました。

ガーゼの上にウジがバーッと付いている。それをすくって洗うと、膿でヌルヌルしているので、それをきれいに洗い落として。でも元気でしたね、歌を歌いながらガーゼを2人で持って伸ばして、それで干して消毒に出して、また使う。まるで野戦病院のようでした。

——それは、本当に大変なご経験をされたのですね。一夜で病院が焼けてしまった様子を見られたときは、どんなお気持ちになられましたか。

須田 涙が出てきて、何も言葉にならなかったです。でも、その年、焼け跡にカボチャやトマトを植えたりしたんですよ。

加藤 たくましかったわよね(笑)。

須田 私トマトは嫌いだったんですけれども、食べるものが何もありませんでしょう? だから赤くなったトマトを取ってきて食べてね。医師の先生も育てるの手伝ってくれまして。

——そうですか。本当に、慶應は先生方と看護婦さんたちが一緒に手を携えて苦難を乗り越えてこられたんですね。患者さんも1人もケガをしなかった

須田 看護婦では担架で患者さんを運ぶときに、同じクラスの村田カノ子さんが、焼夷弾の殻が当たって骨折しました。それから、学生で1人、滑って足を擦りむいたのがいたようですがそれだけでした。

加藤 長岡房江さん(27回生)の話では、担架で患者さんを運ぶ際に腕と胸の間を弾がすり抜けていったということですから、本当に奇跡的なことですよね。

須田 西野忠次郎院長が翌日、大変褒めてくださったんですよ。

救護班の担架教練(1944年)
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