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【講演録】戦後日本と小泉信三──没後50年に際して

2017/04/01

  • 橋本 五郎(はしもと ごろう)

    読売新聞特別編集委員・塾員

戦後日本に与えた大きな影響力

こんにちは。私は講演は何でもやるんですが、今日は非常にやりづらいです。小泉信三さんをよく知っておられる方、研究している方もたくさんおられる中、甚だ自信のないことですが、今日は「戦後日本と小泉信三」という題で私が考えている小泉信三のお話をしたいと思います。

小泉信三は1966年の5月に亡くなられました。私が大学に入ったのは1966年の4月ですから、そのわずか1カ月後です。あれから50年たったのかと、感慨もひとしおですが、今の時代に小泉信三をどう考えるか、という意味では非常に大事なタイミングだと思います。

今日は、私は経済学のことは全くわかりませんので、戦後日本と小泉信三を考えるとき、自分が少しは関係ある話に絞りました。共産主義に対する批判と、平和論、そしてもう1つは皇室との関係です。

なぜ「戦後日本と小泉信三」というタイトルにしたか。小泉信三が戦後の学界、論壇で果たした役割の大きさ、戦後の20年間という、ある意味では日本の骨格がつくられる中で果たした影響力の大きさを私はつくづく感じているからです。恐らく今の若い人には想像できないでしょう。私も戦後生まれですから本でしか知ることはできませんが、終戦直後はマルクス主義、共産主義の影響が非常に大きかった。それは政治、経済のレベルにとどまらず、文学に至るまで広範な影響力が非常に強くありました。そういう中で、小泉信三の果たした役割はどういうものであったのか、ということを考える必要があると思います。

戦後になると、戦前に活躍していた旧世代はもう完全に過去のものという風潮がありました。哲学者の和辻哲郎、安倍能成、法哲学の田中耕太郎といった人たちはみな旧世代と位置づけられ、その影響力が弱くなったと見られていたのです。でも私は決してそうではないと思います。 筑摩書房の『現代日本思想体系』というシリーズのなかの『新保守主義』(昭和38年)という巻で、林健太郎が小泉信三について解説を書いています。これは非常に簡潔でありながら的を射ていると思います。

「小泉信三氏は、わが国におけるマルクス主義批判の先駆者で、しかもその業績が今日に至るまで凌駕されぬ高さを持っている。小泉氏は明治40年ごろ、慶應大学において、わが国で『資本論』を原語で読んだ最初の人と言われる福田徳三からマルクスを学んだ。氏のマルクス理解は日本最大のマルクス主義学者と言われている河上肇よりも早い。しかも小泉氏は、マルクス主義に接した多くの日本の学者とは異なって最初からマルクス説に対し学問的態度をもって臨んだ。」

小泉さんの最大の特徴は、たとえ論敵であり、主張、主義が違っていても、それに対する学問的態度は極めて厳正、公正だった。私はこれが小泉さんという人を一番特徴づけるものだと思います。例えば河上肇は非常に偏屈な男で、正宗白鳥などは徹底的に批判しています。しかし、小泉さんの書いた河上肇批判は非常に礼儀正しく、とても感動的です。その態度を小泉信三は最後まで貫きました。

共産主義者だった野呂榮太郎をずいぶんかばったことも有名な話です。見事に公正さを貫いたと私は思います。これぞ研究者の基本的な態度であり、そして教育者の最も大切な態度だと私は信じています。当時はマルクスの労働価値説に対し、ヨーロッパでも批判はありました。しかし、決してその批判を直輸入して書いているだけではなく、自ら翻訳も行ったリカードなどと比較研究しながらマルクスの価値論にある矛盾を明らかにしています。

小泉は山川均、河上肇、櫛田民蔵などと論争もたくさん行っています。しかし、林氏によると、『資本論』の理解において、山川、河上両氏の理解をはるかに凌いでいた。さらに、マルクス主義批判者としての小泉信三は、単に経済理論への批判にとどまらないで、国家論、歴史論、世界観全般に及んでいた。そして、その批判はそれぞれの分野において古典的完成に達している、と書いています。林健太郎という人は歴史学者で、東大の教授で総長も務めた人ですが、この人は戦前はマルクス主義者で、戦後転向組です。その元マルクス主義者の林健太郎もこのように評価しているのです。

「1949(昭和24)年に『共産主義批判の常識』が単行本で刊行されると、氏にとって未曾有の読者を獲得するとともに、マルクス主義者はここに一大敵国の出現を見て驚愕したのであった。」

小泉信三はそれだけ論敵にとっては恐るべき人でした。

批判の前に理解する

実は、小泉信三が昭和8年に書いた『マルクス死後50年』という本の前文にも、マルクスをどのように理解するかということが書いてあります。

「私はマルクス心酔者ではないし、また、度々の機会に彼れに対する反対批評を試みた。しかし今日吾々同様もしくはそれ以下の年配の文筆者でマルクスを知らず、また全くその影響を感じないという者はあり得ない筈だと思う。……洵(まこと)にマルクシズムには許多(あまた)の誇張偏頗(へんぱ)独断矛盾が蔵せられており、これを指摘することはまた必ずしも難事ではない。しかしこれ等の欠点あるに拘らず、予言者的直覚と革命家的情熱と透徹せる異常の推理力とによって、そうしてこれに加うるに精励無比なる文献渉猟に基づいて書かれた『資本論』は、恐らく19世紀後半における経済学に対する最大の貢献をもって許すべきものであろう。」

この序文を読むだけでも小泉の人柄と学問的態度が表れていると言えると思います。

また、「概して独創多き著者は多く読書せず、多く読書するものは独創を欠くのが常であるのに、マルクスにあっては珍しくもこの両者が充分の程度に兼ね備わっている」と書いています。小泉信三が敵を批判するときには、ある種の法則みたいなものがあります。河上肇に対してもそうですが、批判する前に必ず相手の長所を挙げ、敬意を払いながら、その後、厳しく批判しています。これはやり方としては非常に学ばなければいけない。

私などもテレビなどでコメントするときに、「この人はとっても素晴らしい人です。しかし、こういう問題があるんです」という具合に言わなければだめなのです。ところが時間がないものですから、批判のほうばかりする(笑)。これはあまりよろしくない。批判するからにはちゃんと理解しなければいけないわけですね。

また、「マルクスは難解とされている。私は必ずしもそれに賛成しない。難解難解と称せらるるために、かなり正常平明の解釈が妨げられたと思う。読者の側で素直に納得できないことでも、何か深遠な理窟があるのだろうと、考え過ぎて凝り過ぎて、独り相撲に類する解釈を下した例が従来かなりあったと思う」とも書いています。それは今にも通じることです。

「しかしいずれにしても『資本論』その他の著作が、その結論及び用語の上から見て決して平易な本でないことは勿論である。その理解に年月を要したのも無理ではない。而して潜心熟読して漸くその真髄を摑み得たと信ずる者は、先ずその祖述と弁明とに力を注ぐのが当然の順序である。マルクスの死後50年間における大多数マルクシストの事業は、この祖述と弁明とに終始し、少数の例外を除けば未だマルクスから出発しながら忌憚なくマルクスを批評し、その欠陥、不備、誇張、矛盾を指摘して大胆に自家の見解を述べるところにまで到達していない。」

考えてみれば、「死後50年」どころか、今もなお、そういう傾向があるように思います。

ということで、『共産主義批判の常識』はじめ戦後に書かれたマルクス主義批判に関する本は、いささかも『マルクス死後50年』が書かれた昭和8年から変わっていない。それだけ一貫していたと言えると思います。

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