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【義塾を訪れた外国人】
ジョーン・ロビンソン:義塾を訪れた外国人

2017/12/12

  • 福岡 正夫(ふくおか まさお)

    應義塾大学名誉教授

ロビンソン女史の訪塾

ケインズ派を代表するイギリス・ケンブリッジ大学の著名経済学者ジョーン・ロビンソン女史は惜しくも1983年に生涯を閉じたが、女流の経済学者としてはローザ・ルクセンブルクと相並ぶただ2つの大きな星であった。

女史が初めて日本を訪れ、そしてわが慶應義塾を訪れたのは1956年の夏のことで、そのとき彼女は一般の塾生諸君のために「マルクス主義の再検討」と題する公開講演を行った。たまたま私はその講演の通訳を仰せつかり、女史とともに登壇して大へん緊張したせいか、話の内容をよく覚えている。マルクスは資本主義経済がもっとも成熟した国に革命が起こり、社会主義体制がとって代わると予言したが、事実はそれに反して、革命国家はかえって資本主義がまだ弱体であるか、ほとんど発展していなかったロシアや中国のような国に実現した。これは1日も早く工業国を建設して先進国に追いつきたいというプログラムを遂行するには、自由な私企業体制より集権的な革命政府のほうがはるかに有効であるからだ。大まかに言って、そういうのが話の論旨であった。

レセプションには、往年ケンブリッジに留学された野村兼太郎先生なども同席されて懐旧談に花が咲き、またマルクス経済学の遊部久蔵先生と女史とのあいだには労働価値説論争がもち上がるなど、大へんにぎやかな座になった。そのスナップ写真が何葉か私の手許に残っているが、いまそれを眺めてみると、何とロビンソン女史も若々しくふくよかであったことだろう。それに野村先生も遊部先生もすでに亡く、つくづく時の移ろいの速さ、淋しさが感ぜられてならない。

ケンブリッジでの接触

さてこの三田山上での交流からさらに十年が経過し、こんどは1966年から1カ年ほど私のほうが女史の牙城であるケンブリッジ大学に赴く番となった。もはや顔見知りのこととて、女史は大へん温かく私を遇して下さったが、そのころの彼女は押しも押されぬイギリス経済学界の重鎮であり、ケンブリッジのファカルティーでもまさにクイーンとして君臨している趣きがあった。シジウィック・アヴェニューにある経済学部ではやはりイギリスらしく午前10時と午後3時にお茶の集(つど)いがあり、その日研究室に来ている学部のスタッフはみなラウンジに集って雑談するわけであるが、女史はいつでも話の渦の中心人物であったし、またファカルティー・セミナーなどのさいも必ず鋭い質問をして座をリードした。白髪に窓辺の日を受けて議論に打ち込む女史の姿には、どことなく侵すべからざる尊厳と気品が漂っていた。

女史の家は大学の近くグレインジ・ロードに面した立派な邸宅であったが、現地で知ってびっくりしたのは、かつて慶應義塾で福澤諭吉の思想を学び、すでに本欄にも登場したカーメン・ブラッカー女史がこのロビンソン家の3階に寄宿していたことである。彼女とは塾留学の当初から親友関係にあったので、ケンブリッジ滞在中も招かれるままに足繁く訪れ、お手製のラーメンなどご馳走になった。彼女の部屋にはいちいちロビンソン家の玄関で案内を請わなくても、裏口から階段を上がって気楽に行けたのである。当然ロビンソン女史のこともたびたび話題に上(のぼ)ったが、カーメンが3階の窓から庭を見ていると、寝椅子でまどろんでいるロビンソン女史の毛髪を小鳥が啄(ついば)みにくるなどといった話を聞いたのが、つい昨日のことのように懐かしく思い出される。

左から筆者、千種教授、ロビンソン女史、遊部教授(1956年の来塾時)
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