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【義塾を訪れた外国人】
ジョーン・ロビンソン:義塾を訪れた外国人

2017/12/12

反骨の精神

ロビンソン女史は膨大な学問的業績を残したが、それらは前期と後期とで大きく性格を変えてきた。前期の局面では『不完全競争の経済学』(1933年)や『雇用理論論文集』(47年)などに見られるようにむしろ正統的な分野にいくつかの重要な貢献をもたらしたが、それに引き換え後期に向かうと『資本蓄積論』(56年)あたりを境としてその学風は次第に往年の積極性を失い、それに代えていちじるしくニヒルな性格を帯びるようになった。経済学というもの全般に対する一種の「西洋の没落」的なペシミズムが漂ってくると同時に、オーソドックスな主流派経済学への徹底した否定的スタンスがあらわ、、、になってきたのである。

老いの一徹というか、そうした女史の反骨精神は並々ならぬもので、たとえば資本利子をマクロの生産関数にもとづく資本の限界生産力で説明するたぐいの新古典派流の議論などはコテンパンに批判の標的とされた。したがって女史とある論点について論じたいというような場合、途中でマクロの資本概念を持ち出すのは禁物で、いわば丸薬に糖衣をかぶせて論ずることなしには話を肝心の終点まで進めることは不可能なのであった。彼女の研究室で議論していたあるときのことなど、自分はone commodity people(資本があたかもただ1種類の財のみから成るかのように語る人たち)とは話をしたくないから、きょうはもう出ていきなさいとドアを指さされたことさえあったくらいである。

ケンブリッジ対ケンブリッジ

そうした次第で、ロビンソン女史自身および彼女を擁立するイギリス・ケンブリッジ派の学者たちと、一方オーソドックスな主流派経済学の立場を奉ずるアメリカ・マサチューセッツ・ケンブリッジ派の学者たちとのあいだに顕著な対立関係が生じ、熾烈な論争がとり交わされるにいたったのは、事の当然の成行きであった。ケンブリッジ対ケンブリッジ(Cambridge versus Cambridge)というのは、ロビンソン、カーン、スラッファ、カルドア、パジネッティなどから成るイギリス・ケンブリッジ派とサミュエルソン、モジリアーニ、ソローらを陣容とするアメリカ・ケンブリッジ派というライバル間の対立をさす言葉で、1950年代の半ばから60年代にかけて両者のあいだにはマクロの生産関数の是非論を始めさまざまな問題をめぐって激しい論争の火花が散らされることになった。

この論争の1つの種となった問題に、いわゆるリスイッチングが起こるか起こらないかという議論があり、ここでリスイッチングとは、ふつうの主流派の常識にしたがえば、金利が下がると資本をより多く使う生産方法が採用されるようになるはずなのに、場合によっては金利の下落がかえって労働をより多く使うもとの生産方法にスイッチを逆転させてしまう可能性もありうる、ということをさしているのである。そのようなリスイッチングの可能性は、かなり初期の段階からイギリス・ケンブリッジの側ではロビンソンやスラッファによって指摘されていた。ところが60年代になって、アメリカ・ケンブリッジ側のレバーリという若い学者がそうした逆転は決して起こりえないことを「証明」したという論文をハーヴァードの雑誌に発表したので、それを切っかけに両ケンブリッジのあいだにはその是非をめぐって論争が触発されることになったのである。レバーリの論文に対してはイギリス・ケンブリッジ側からただちにパジネッティが反論を書き、レバーリの主張は間違っていることを指摘した。

これはたしかにレバーリのほうが黒星で、彼の「証明」には2、3の数学上のスリップがあり、パジネッティ側に分(ぶ)のあることには疑念の余地はないのである。つまりこの論争に関するかぎりは明らかにイギリス・ケンブリッジ側に軍配が上がったわけで、ちょうどそのころケンブリッジにいた私は、彼らの戦捷気分を肌で感ずることができた。ファカルティーのある朝のお茶の集いで、スラッファがニヤニヤしながら私の前にどっかり座り込み、今朝(けさ)君のお師匠さんのサミュエルソンから全面降伏の手紙が来たよと、その手紙をヒラヒラさせたときの得意満面の表情がいまでも鮮明に頭に浮かぶ。

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