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【義塾を訪れた外国人】
カーメン・ブラッカー:義塾を訪れた外国人

2016/07/07

  • 髙橋 勇(たかはし いさむ)

    慶應義塾大学文学部教授

大戦後、新制大学として生まれ変わった1951年、慶應義塾大学は27歳のうら若きイギリス人女性を留学生に迎えた。日本語に通暁し、日本の近代思想史なかんずく福澤諭吉をその研究対象とした彼女は、やっと来訪かなった日本での留学先に、当然のように慶應義塾大学を選んだのである。その後ながきに亘って慶應と英国、そして日本と英国の重要な懸け橋となった1人の塾生にして、のちには皇后陛下とも交友を結び、英国皇太子夫妻来日にあたって日本文化を講じたこの研究者、カーメン・ブラッカー博士の足跡をたどってみよう。

日本語、そして慶應との出会い

カーメン・エリザベス・ブラッカーは1924年、サリー州の日本とは無縁の家庭に生を受けた。劇作家・小説家オスカー・ワイルドの親友でもあった祖父のカーロスは熱心な書物蒐集家で、書店に多量の安物を摑まされるなど、コレクターとして目利きだったとは言い難いものの、広く知られた知識人であった。父のカーロス・ペイトンは第1次大戦で戦功を立てたのち精神医学・優生学の専門家となっており、この知的な家系を反映してだろう、子供たちは幼いころから文学に親しむこととなった。

その父がたまたま古事記を読み聞かせる中で口にした「日本の神々の名前は長い」とのコメントが、日本語を聞いたこともなかった女の子の想像力をかきたてたのだという。なお、具体的には富士山のご神体「コノハナサクヤビメ」に興味を持ったらしい。

記憶によればこのとき12歳のブラッカーは、誕生日のプレゼントにと両親に日本語の教科書をねだった。戦前のことだ。ロンドンでも日本語の教科書、しかも子供向けのものなどを手に入れるのは不可能にちかい。ロンドン中を捜しまわった母親がやっと見つけた文法書が、馬場辰猪(たつい)の手になるAn Elementary Grammar of the Japanese Language の第3版である。実はブラッカーはこの時点で、はやばやと慶應義塾との邂逅を果たしていたのだった。

というのも、土佐藩士でのちの自由民権運動の闘士となる馬場は、慶應2年に江戸に上り、福澤塾の門をたたいた初期の福澤門下生であったからだ。慶應義塾でも教鞭を執ったのちに土佐藩の留学生として渡英した彼は、留学中の1873年にくだんの日本文典を著し、森有礼らの国語英語化論に反対する論陣を張る。若くしてアメリカで不遇の死を迎えた馬場の日本語教本が、巡り巡って英国の少女の手に渡ったのだから、運命的と呼んでもよいだろう。

そうはいっても教本のみでは発音も覚束ない。ブラッカーが本格的に日本語を学び始めるのは1941年、在日本のイギリス大使館付き武官だったフランシス・ピゴットから手ほどきを受けるようになってからである。「サイタ、サイタ、サクラガ、サイタ」から始まる読本というから、第4期国定教科書とおぼしい。

日本語学と戦争

その後、大戦が激化する中、戦時協力体制の一環として東アジア言語を学ぶべく、ブラッカーはロンドン大学東洋アフリカ研究学部に通い始め、ほどなくしてブレッチリー・パークの政府暗号学校へと招集された。そこでの仕事にまったく関心を持てなかったこの時期の彼女の心のオアシスは、人に借りたアーサー・ウェイリー訳の『源氏物語』だった。ブラッカーはほどなくこの訳者本人に引き合わされ、戦後はその指導のもと東洋アフリカ研究学部で日本語・日本文学を学んで、1947年に最優秀の成績で学士号を取得している。

しかし、オックスフォードのサマヴィル・コレッジに移ったこの年、彼女は愛する日本語・日本研究からいったん離れることを決意する。いわく、歴史学や社会学など、ひとまず言語と無関係の分野を学ばなくては、自分は本当に役に立つ人材となれない、と。そして選択したのが18・19世紀のヨーロッパ政治思想史であり、これが数年後、元来の日本に対する熱意と相まって福澤研究に彼女を向かわせるのである。

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