【特集:大学発スタートアップの展望】
芦澤 美智子:大学発スタートアップが生み出される環境とは──スタンフォード大学の例から展望する慶應義塾のスタートアップ・エコシステムの将来
2024/05/07
スタンフォード大学での調査
スタンフォード大学は、起業家を数多く輩出する大学として有名である。Googleは、コンピュータサイエンス専攻の若き研究者が生み出した。ヤフーは、キャンパス内のトレーラーハウスで産声をあげた。インスタグラムは、起業家育成プログラム「メイフィールド・フェローズ」の学生が立ち上げた。ショックウェーブメディカルは、医学部の起業家教育プログラム「バイオデザイン」から生まれた会社であるが、2024年4月に約2兆円で買収されたとのニュースが世界中に配信された。スタンフォード大学では、このような事例は枚挙にいとまがない。
私はそのスタンフォード大学に、2022年8月から8カ月間、客員研究員として滞在した。「スタンフォード大学からなぜ起業家が生まれるのか」を調査するためであった。初めてキャンパスを訪れた夏の日、強い日差しと爽やかな気候、抜けるような青空が印象的であった。広大なキャンパスは緑豊かで、コロニアル様式で統一された建物群は実に美しかった。訪れてすぐ、「この環境があってこそ、ここから起業家が生まれ、困難の数々を乗り越えるのであろう」ということを全身で理解した。まさに百聞は一見に如かずである。
私の起業家精神にもおのずと火がつき、早速調査を開始した。キャンパスのイベントに顔を出し、起業家教育プログラムに参加する学生を探し出し、インタビューを申し込んだ。さらに縁を手繰り寄せ、プログラムの創設者たちにインタビューすることができた。その中には、2000年からの16年間の在任期間に、スタンフォード大学を全米で一番起業家を生み出す大学へと押し上げた、第10代学長のジョン・ヘネシー教授(現在ナイト・ヘネシー奨学金プログラムを率いており、また、Googleの親会社であるアルファベット会長でもある)も含まれていた。
なぜ起業家が生まれるのか
20名余りから聞いた話から、「スタンフォード大学からなぜ起業家が生まれるのか」の理由が浮かび上がってきた。
第一に、キャンパス「外」との活発な連携がある。大学はシリコンバレーの中心に位置し、近隣には大小様々のスタートアップがオフィスを構えている。大学の西側のサンド・ヒル・ロードにはベンチャーキャピタルが、東側のページ・ミル・ロードには法律事務所が並ぶ。この物理的利点を生かすかのように、スタンフォード大学のキャンパスには、日常的に起業家や支援者が訪れ、講義をしたり、ピッチコンテストの審査員をしたりしている。
学生起業家サークル「ASES」のイベントには、イーロン・マスクが参加したこともあるという。キャンパスを訪れていた有名なベンチャーキャピタリストであるジョン・ドーア(Google、Amazon、Twitterなどに投資している)と雑談をし「早く起業しなさい。応援するから」と直接言われたという日本人留学生もいた。ある学生はスタンフォード大学での日々について「起業家精神を『教わる』というよりも『浸る』感じですね」と表現していた。こうしたキャンパス「外」とのネットワーク・交流が、学生の起業を後押しする。
第二に、キャンパス「内」での活発な学部連携がある。例えば、医学部にある起業家教育プログラム「バイオデザイン」には、3つの学部(医学部と工学部とビジネススクール)の学生が参加している。医学部生が医療現場や患者のニーズを提示し、工学部生が技術を提示する。そしてビジネススクール生がビジネスモデルを構築し、プレゼンテーションの取りまとめをしている。
このような学部横断的な起業家教育プログラムがいくつも見られる。学生数は、慶應の約半分(学部生約7,800人、修士博士学生約9,700人)だが、スタンフォード大学公認の起業関係組織の数は40にのぼる(https://sen.stanford.edu/)。そのほとんどが、学部をまたいだ参加が可能になっている。起業アイデアは専門分野を越えた交わりから生まれ、学部を越えた人的ネットワークは、いざ起業する時の補完的なチーム組成を可能とする。起業の種類別、事業フェーズ別に特化した起業支援プログラムが存在する。起業を後押しする仕組みがキャンパスのそこかしこに存在する。
第三に、起業家/スタートアップを支える文化の存在がある。「スタンフォード大学からなぜ起業家が生まれるのか」と問うと、ほとんどの人が、キャンパスを貫く文化の重要性を語るのである。「新しいことに挑戦する」「失敗を許容する」「Yes butではなくYes andで返答する」「めちゃくちゃ働いて少し休む」「組織や人にではなく技術に忠実である」「起業家は社会を前に進める大事な存在である」といった言葉で表現される文化が、キャンパス全体に根付いているのである。
また、学生だけでなく教職員においても、新しい分野を切り開いた人が評価され、アカデミアに閉じず、産業界と繋がって研究を社会実装することに価値が置かれているのだという。そもそも日本において、ここまで多くの人が「文化が大事である」と言及する組織に、私は未だ出会ったことがない。起業家/スタートアップの発展を下支えする文化が存在し、その重要性を多くの人が認識し、自らもその文化の担い手になろうとしている。キャンパス全体が起業家を生み育てようとする雰囲気に包まれていて、リスクを取って挑戦しようとする人に温かいのである。
起業家育成制度はどのように形成されたのか
ここまで理解した後に出てきた疑問は、「さて、スタンフォード大学には、いつからこのような制度や文化があったのだろうか」である。そこで起業家教育プログラムの立上げに携わった教授たちの話を聞いてみると、30年ほど前には、起業を支援するプログラムも、起業を応援する文化も、ほとんどなかったのだということがわかった。ほんの一部の教員が、個人的に挑戦したり支援したりする程度だったそうである。
そこで改めて教授たちに「ではなぜ、キャンパス内で起業家教育プログラムが次々と立ち上がったのか。その担い手は誰だったのか」と聞いてみたところ、4つのことが浮かび上がってきた。それは、「第10代学長ジョン・ヘネシー教授のリーダーシップ」「ヒューレット・パッカードなどの成功した卒業生の寄付支援」「キャンパス近隣のシリコンバレーにおける巨大なインターネット産業化の波」「スタンフォード大学の分権的組織体制」である。起業家育成が大学発展の鍵になると確信したリーダーがいて(ジョン・ヘネシー教授自身、教授になってから1年休職し、起業した経験を持っている)、そのビジョンに共鳴した支援者が資金面で発展を支えたこと、キャンパスの近隣にApple、Google、Facebookなどが次々と生まれ、外部環境要因に恵まれたことは、理解に難くない話であった。しかし、「大学の分権的組織体制」の話は「つまりどういうことなのでしょうか」と追加説明を要するところであった。このことを起業家教育プログラムの立上げに携わった教授に質問したところ、以下のような話をしてくれた。
「スタンフォード大学には優秀な人材が集まってきます。優秀な人というのは、自分たちの世界を自分たちで運営するのが好きですよね。ですから、分散型組織であることが大事なのです。自由な研究が認められていれば、自分の研究成果を社会に実装し、人々の役に立てたい、社会を良き方向へ自らの手で変えたいと思う人、起業を志す人が出てきます。そうして起業を経験した人はその後、自らの苦労や経験を後に続く人に役立てて欲しいと思うでしょう。こうして人々が、自らの起業経験を通じて得た知識や知恵・ネットワークを、次の起業家に提供しようとして、起業家教育プログラムを作ったのです」
分権的な組織体制があってこそ起業家が生まれ、起業経験者が次の起業家を助けようとして起業家教育プログラムが生まれる。このような自由闊達なキャンパス環境が、スタンフォード大学スタートアップエコシステムの起点になったというのである。
2024年5月号
【特集:大学発スタートアップの展望】
カテゴリ | |
---|---|
三田評論のコーナー |
芦澤 美智子(あしざわ みちこ)
慶應義塾大学大学院経営管理研究科准教授