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【特集:団地の未来】
中澤日菜子:多摩ニュータウンを描いて

2023/05/08

取材に歩いて

取材に行ったのは2016年の春から秋にかけて。章ごとの舞台となる学校や商店街、京王線永山駅ちかくの団地をくまなく歩いた。

久しぶりに歩く多摩ニュータウンは、わたしが住んでいた頃とだいぶ趣きを変えていた。

かつてひとで溢れていた商店街は、シャッターの降りた店舗ばかり。買い物客の行き交いもみられない。たまに「営業」しているのは介護ステーションや、ショートステイの事務所ばかり。それはそうだろう、かつて20代~30代だったニュータウンの住人はみな町とともに年老い、高齢者となっている。計画当時は「初期入植者の子ども世代が戻って来て家庭を築き、町はつづいていく」という目論見があったが、それは机上の空論となり、子ども世代は通勤に便利な都心に居を構え、ニュータウンには戻ってこなかった。

溢れかえる子どもたちを収容するため急ピッチで作られた小学校や中学校は多くが廃校となり、荒れるにまかせている。かんじんの住まいである団地は、エレベーターがないという不便さから4階5階といった高層階からひとが減っていき、かろうじてひとが住まっているのはほぼ1階や2階、それもかなりの確率で無人というありさまだった。

広い公園には子どものすがたは少なく、同じような年齢の高齢者たちがベンチでくつろいでいる。バスの減便のため、交通の便のよい駅近のマンションやアパートに住み替える住民も多いと聞く。そしてますます団地の住人は減ってゆき住民の減少に歯止めがかからなくなっているのである。

全盛期のニュータウンに暮らしていた身からすると、現在の町を見回すたびに寂しさ、やるせなさが募って来る。「老いたニュータウン」町は確実に終焉に向かっているかのように見えた。

40年前の町

そんな現在のニュータウンを歩くにつけ、わたしが入植した当時の町が頭のなかでよみがえってくる。

いまの実家がある聖ヶ丘地区へ最初に行ってみたときのこと。家はまだ一棟も建っておらず、むき出しの赤土が広がる、まさに開拓期の造成地だった。商店街にはさまざまな業種の店舗が開いており、肉や魚、小規模のスーパーなどがあり、毎日の生活に困らないようなラインナップとなっていた。まだ新しい学校には、児童・生徒のすがたが多く見られ、活気に満ちていた。

最寄り駅のひとつ、聖蹟桜ヶ丘駅は新駅舎を建設中で、背の高いクレーン車が何台も空に向かって首をもたげ、それはさながら恐竜の群れを思い起こさせた。まだ改装中の暗い仮駅舎、駅前には夜泣きそばやたこ焼きの屋台が並び、高校生のわたしはよくそこで買い食いをしたものだ。

1986年、新駅舎の完成した聖蹟桜ヶ丘には、京王デパートをふくむ一大ショッピングセンターがオープンし、衣食住を支える店舗はもちろん、映画館や劇場までもが完備された便利このうえないしつらえとなった。「都心まで出なくとも、この町ですべてがそろう」そんな意気込みが町づくりに反映されたのであろう。そしてその目論見通りに、町は発展していったのである。

ただ、そんな「作られた町」には独特の「問題」があった。

ひとびとが何世代にもわたって作り上げた町の「匂い」が希薄なのである。具体的に言えばパチンコ店や風俗街がない。レコード店やジャズ喫茶、赤ちょうちんもない。清潔で安全ではあるが、生活感が薄いのだ。団地のなかに商店街はあるものの、多くの店は土地をニュータウン側に譲渡した元農家のひとたちが他所で学んで開いた新規店であり、なんというか「商売をしている」感が薄かった。

若かったわたしは、そういった「清潔で安全ではあるものの、刺激が極端に少ない町」に、もの足りなさを感じていた。友だちの住む中央線沿線の高円寺や阿佐ヶ谷、または仕事で訪れた谷中や浅草といった、まさに何代もかけて先人がつくり上げた個性の強い町にあこがれた。

極私的な思い出

とはいえニュータウンでの暮らしには、ニュータウンでしか経験できない日常もいっぱい詰まっていた。極私的なエピソードになるが、そんな思い出の一端を紹介したい。

高校生だったときのこと。近くの里山で見つけたすみれを庭に植えようと、わたしはシャベルを動かしていた。庭土をいくらか掘り下げたとき、こつんとなにかがシャベルに当たった。掘りだしてみるとそれは縄目のくっきりついた土器であった。大学に持っていき、考古学の教授に見てもらうと「間違いなく縄文土器である」とのお墨付きをもらった。自宅の庭から縄文土器。調べてみると多摩ニュータウンのある多摩西部の丘陵地は、古くからひとの住まう村が点在していたという事実に行き当たった。最新の、生まれたばかりの町の下には1万年前のムラが眠っている。わくわくするような体験であった。

古くからの農家がニュータウンのすぐ隣に残っていることも、胸にじんわり広がる嬉しさだった。農家があれば畑がある。畑があれば水路が流れ、実り多き里山が出来上がる。いまでは開発され、高層マンションの立ち並ぶ若葉台のあたりには、そんな牧歌的な光景が広がっていた。春の午後、住宅の立ち並ぶ団地を抜け、境界線のように鎮座する古い神社の裏手に回る。林をしばらく歩くと、突然目の前に茅葺きの農家と野菜の緑がやさしく光る畑が映る。それはまるで時を超えたような、あるいは遠い地にワープしたかのような不思議な感覚をわたしに生じさせた。あのこころ温まる光景を、光を鳥のさえずりを、わたしは生涯忘れることはないと思う。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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