【特集:団地の未来】
相澤真一:団地に流れていた子どもと家族の時間──「総中流」社会の「先端」住宅地のゆくえ
2023/05/08
総中流のはじまりと団地へのあこがれ
近年、「教育格差」や「格差社会」、さらには「親ガチャ」という言葉などで、日本社会のなかの「格差」を語ることは決して珍しいことではなくなった。大学受験生たちが日本社会の格差の解決を志望動機として面接で語ることもしばしば見かける。しかしながら、40歳代以上の世代の人たちから見れば、これらの言葉が少し「新しい」ものだと感じることも多いのではなかろうか。
1970年代から1990年代前半にかけて、日本社会が達成したかに見えたのは平等な社会だった。この平等な社会を語る言葉が「総中流」であった。例えば、「総中流」という言葉を語るきっかけとなった1975年の質問紙調査では、8割以上が自分の生活を「中程度」と認識していた。これが「総中流」と表現する根拠になった。
この人々が「平等」「中流」と考える社会において、住居における象徴的存在が団地だった。渡邉大輔を中心とする研究チームで復元した1965年の神奈川県の「団地居住者生活実態調査」では、1950年代に入居の始まった市営・県営住宅と1960年代に入居の始まった6つの団地に居住する人々の生活状況と生活時間が記録されていた。本稿では、「団地居住者生活実態調査」から読み取れる当時の生活と空気を紹介する。なお、ここに紹介した内容の一部は渡邉大輔・相澤真一・森直人編『総中流の始まり――団地と生活時間の戦後史』(青弓社)でも著している。
当時の人々にとって、団地への入居は、新しい生活の始まりだった。真新しいコンクリートの建物に、真新しい家電を買って居住する。調査票のなかには、この新しい生活への希望が読み取れる。1965年の「全国消費実態調査」では、電気洗濯機の所有率は68.5%、電気・ガス冷蔵庫の所有率は51.4%であったが、この調査では、ともに9割を超えていた。平均取得年は1961年あるいは62年であった。移り住む際に購入した世帯も多かったと推察される。
東久留米市の滝山団地に住んでいた政治学者の原武史は、団地について、次のように振り返る。
当時、滝山団地から通っていた児童の多くは、私を含めて、一戸建に対する憧れを全くといっていいほど持たなかった。むしろ団地こそが現代を象徴する新しい住宅であり、地震や火事が起これば、木造の一戸建などたちどころに倒壊してしまうと信じ込んでいた。(原武史『滝山コミューン一九七四』175頁、講談社文庫、2010年)
新しい住宅での新しい生活を彩る象徴的存在がテレビだった。この調査のなかで、夫婦の生活時間から分析すると、半分以上の世帯で平日の20時から22時は夫婦のいずれかがテレビを見ていた。また9割の小中学生は平日夜にテレビを見ていると回答していた。当時の新聞のテレビ欄と突き合わせてみると、平日の17時45分の「ひょっこりひょうたん島」から始まり20時までに子ども向けの番組が集中していた。その後は親がテレビを見ていたのであろう。
総中流のライフスタイル
1965年初冬に調査された時点での子どもの生活は、全体として見ると都市的でありながらも牧歌的であった。都市的であるというのは、戦前から都市部で見られた手伝いよりは家庭学習に割く時間が多い、という傾向が見られる点にある。例えば、午後か夜に家庭学習をする子どもたちは8割を超えている一方で、手伝いなどをしているという子どもは女子で若干多いものの1割程度であった。他方で、子どもたちの放課後の過ごし方は、まだ牧歌的とも言えるものであった。寒い時期の調査だったものの、外で遊ぶと答えた小中学生が男子で26%おり、平日の活動で「習い事をする」という答えは6%で、塾に行くと答えた小中学生も1割程度で外遊びなどのほうが多かった。睡眠時間は、小学校低学年で10時間を超えており、中学生で8時間台後半、高校生で7時間台であった。すでに「四当五落」(4時間睡眠の者が受験に合格し、5時間寝ると落ちる)といった言葉が広まっていた頃だったが、そのような子どもはなかなか見受けられなかった。この「よく学び、よく遊び、よく寝る」と「テレビを見る」ことの組み合わせが「総中流」と呼ばれた社会のなかでの子どもの典型的なライフスタイルの始まりだったと言える。
都市型ライフスタイルの象徴であった団地の子どもたちの生活にいち早く入り込んだ「受験」の世界は、中学受験の世界だったとも言える。ロナルド・ドーアの『都市の日本人』(岩波書店)において、終戦直後の東京の下町と山の手の入り混じった住宅街において、勉強熱心な家庭では中学受験をしていることが紹介されている。上記の団地のデータにおいても、塾に行くと答えた小中学生は1割程度ではあったものの、最も高い割合を示しているのは11歳、12歳で2割を超えている。
集団主義教育を推し進める地元の団地の小学校で感じていた息苦しさから中学受験をして脱出した自伝的ノンフィクション『滝山コミューン一九七四』では、199人の卒業生のうち、189人が地元の公立中学校に進んだとされている。「ごく少数」のうちの1人として慶應義塾普通部に進学した原武史は、普通部に進学してみると、団地に住んでいたクラスメートは1人もおらず、住居について見方が変化したことを次のように述べる。
小学校時代に抱いていた一戸建に対する優越感は、慶應に入ることでもろくも崩れ去った。団地はもはや時代の先端を行くどころか、その逆になっていることを、私は認めざるを得なくなった。(前掲書315頁)
ここで、原の述べる「先端を行くどころか、その逆」というのは、進学移動をした原の周囲の準拠集団が変化したことによるものであることは言うまでもない。むしろ、都市山の手の世界にあった中学受験の世界を都市郊外の団地に持ち込んだ人々が団地を経由していった時代が「総中流」の始まりの時代にあったと見るのが適切であろう。
1950年代、60年代に時代の先端を行く集合住宅であった団地は、その後も90年代までは「総中流」社会での新しい街での先端的な住処であった。金子淳が『ニュータウンの社会史』(青弓社)で整理するように、1960年代後半以降は、ニュータウンを構成する一部となっていく。団地の住居自体が2DKから3DK、3LDKあるいはエレベータ付高層住宅へと変化する。この流れは第2次ベビーブーマーが実家を離れる前の1990年代いっぱいまでニュータウンの造成と共に続く。団地は、ニュータウンの構成部分としては、20世紀中は「先端」であった。
2023年5月号
【特集:団地の未来】
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相澤 真一(あいざわ しんいち)
上智大学総合人間科学部教授・塾員