三田評論ONLINE

【特集:障害と社会】
パラスポーツが変える社会──ブラインドサッカーとの関わりを通して

2018/12/05

パラスポーツとの関わりで得られるもの

私は、パラスポーツに関わることの最大の価値は、自分とは違った人の存在を認め、相互に協力することの重要性を理解できるという点にあるのではないかと考えています。

私自身がブラインドサッカーに出会った時にそうであったように、多くの人がパラスポーツに惹きつけられる最初のフックは、選手の「強さや挑戦心」です。激しいプレー、アスリートとしての高い能力や精神力に触れることで、障害者について漠然と抱いていた先入観や偏見が覆されます。これは先述したロンドンパラリンピックのキャンペーンで意図されたことと同じでしょう。

ただし、パラスポーツとの関わりを深めていけば、別の面にも気づくことになります。一口にパラリンピックを目指す選手といっても、障害が先天的なものか後天的なものか、また種別や程度によって様々ですが、彼らの多くは悔しさや悲しさ、絶望を経験しながら、なお前向きに人生を歩もうとしている人たちです。失ったもの、できないことに囚われるのではなく、可能性を信じて進んでいる姿から学べることは多くあります。しかし、彼らは感動を与えてくれるスーパーヒーローではなく、競技においても日常生活においても、夢と現実の狭間で揺れ動き、苦しみ、悩んでいる一人の人間です。

最初は障害者選手とどう接していいか分からず構えてしまうこともあると思いますが、時間がたつにつれて自然に接することができるようになるでしょう。交流を重ねる中で、パワフルで魅力的な人物なのに、できないこと、困っていること、悩んでいることがあるということが分かれば、一人の人間の中に共存する「強さと弱さ」をフラットに理解することができます。そしてそれは、強さが善であり弱さが悪であるという単純な二項対立ではなく、自分自身の中にある「強さと弱さ」両方を肯定的に自覚することにもつながっていくでしょう。

「強い健常者」が「弱い障害者」を一方的に支援するのではなく、お互いに「できること」と「できないこと」があるという当たり前のことを実感し、共通の目標を持って協力する関係を築くことは、より深く競技の魅力を知るとともに、新しい世界観を拓くための入口となります。

もちろん、パラリンピックを目指すようなアスリートは障害者のごく一部に過ぎません。スポーツどころか、身体がまったく動かせない人もいますし、意思疎通が難しい人もいます。しかし、パラスポーツへの関わりを通じ、強さと弱さ両方を肯定的に捉えることの意味を実感することは、パラスポーツアスリート以外の障害者の存在にもあらためて目を向けるきっかけとなるでしょう。

KEIO フットサルアドベンチャーで行われたブラインドサッカー(2016年、日吉キャンパス)

学生の世界を広げるために

大学生の日常生活世界は極めて狭い範囲にとどまっています。交流の範囲は授業やサークル活動で同じ大学に通う同じ世代が大半で、他世代との接点はアルバイトやインターン先で出会う上司くらいではないでしょうか。塾生の7割以上を首都圏出身者が占めるようになったこともあり、大半の学生は社会全体から見れば極端に同質的な世界で暮らし、障害者をはじめとする、いわゆる「社会的マイノリティ」との接点もほとんど持つことなく日常を過ごしています。恐らくはそのことが社会的な問題への無関心や無意識の偏見を生み出す一因となっていることを考えれば、「障害者」や「社会的弱者」のイメージを揺さぶり、一人の個性を持った人として接することの重要性を認識するきっかけを増やしていくことが必要です。

学生世代が「自分とは違った他者」と混ざり合って生きる社会を具体的にイメージできるような場を提供するために、ブラインドサッカーを始めとするパラスポーツが果たすことのできる役割があります。パラリンピックという機運を活かしつつも、一過性の興味関心として終わることのないよう、若い世代を巻き込んでいく挑戦を続けていきたいと思います。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事