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【特集:公共図書館を考える】
図書館を大切に扱うには

2018/07/09

  • 片山 善博(かたやま よしひろ)

    早稲田大学大学院政治学研究科教授、元慶應義塾大学法学部教授、元鳥取県知事・特選塾員

自治体には図書館をもっと大事に扱ってもらいたい。地方自治をライフワークとしてきた筆者がいつも願っていることである。

大切に扱うとは、図書館の予算をもっと充実する、図書館のスタッフ、わけても司書の配置を充実し、その処遇を改善することなどを意味する。また、図書館の管理を安易に外部化したり、図書館を賑わい創出のための道具にしたりしないことをも意味する。

しかし、現実には図書館の予算や体制が貧弱な自治体は少なくない。また、近年とみに図書館の管理運営を外部化する自治体が増えているし、そこでは図書館が賑わい創出の場として提供され、もはや図書館と呼ぶのが憚られる施設と化してしまっている事例も散見されるようになった。情けないことだと思う。

図書館が持つ重要な役割

筆者がどうして図書館のことに強い関心を寄せるのかと言えば、1つには、わが国の図書館の多くが自治体によって設置されているからである。公共図書館はもとより、公立学校の学校図書館も地方議会の議会図書室も、すべて自治体によって設置され、運営されている。

もう1つは、図書館が地域の現在及び将来にとってとても重要な意義と役割をもっていると考えるからである。公共図書館の役割ないしミッションについては様々な見解がある。図書館情報学の専門家からすると異論があるのかもしれないが、筆者は公共図書館の重要な役割の1つは万人に対してその知的活動を支援することだと考えている。

とかく図書館は生涯学習の拠点だと言われる。この表現は決して間違っていない。ただ、生涯学習とはともすれば時間的余裕のある高齢者をもっぱらの対象とするかの如き印象を呈する。そこから、図書館とは暇な人のための無料貸本屋だとの見方も生じる。

しかし、その見方は間違っている。人にはそれぞれ知的な活動領域がある。仕事をする上で知識や情報を得なければならない人は多い。もしその人が企業に勤めているのであれば、その企業の内部にそうした必要を満たす環境が整っているかもしれないが、整っていないこともあろう。そんな時、図書館はその知識や情報に到達する糸口になる。 その人が、仕事上の必要を満たす環境を整える余裕を持たない零細な企業に勤めている場合や、個人で仕事をしているフリーランスである場合には、図書館の持つ役割はいっそう大きいものになるはずだ。

仕事だけではない。例えば趣味を楽しむための知識や情報を求める人、自分や家族の健康や病気に関して調べごとがある人、旅行に行く前に旅先のことについて知りたい人など、私生活の面で知的な欲求を持つ人は多い。この人たちにとっても、図書館の膨大な書籍や資料、それに司書はとても役に立つ存在になり得る。敢えて付け加えると、それこそ時間に余裕のある高齢者の読書も立派な知的活動であり、図書館はもちろんその人たちの活動をも支援する。

観点を変えて、自治体行政を司った経験から図書館の重要性を論ずると、自治体行政のさまざまな分野は図書館と連携することによって、市民のためにより質の高い行政サービスの提供を可能にする。すでにいくつもの図書館で始まっている起業支援はその1つだが、これにとどまらず、例えばマイノリティへの情報提供など他の分野でもこれから多彩な施策が具体化されることが予想される。

さらに、図書館は地域の歴史や文化などの情報や資料を後世に伝える機能も担っている。地誌や古文書はもとより古地図、写真なども、博物館が整っていない自治体であれば、図書館がそれを収集・保存し、現在及び後世の市民の利用に供さなければならない。同様に、公文書館が設置されていない自治体であれば、重要な公文書や自治体の選挙結果など、その地域にしかない貴重な資料や情報は図書館が保存しておくべきである。

図書館が大切に扱われない背景

かくも重要な機能と役割を持つ図書館なのに、これを大切に扱わない自治体が多いのはなぜか。1つには、自治体の首長や議員など、その政策形成の中枢にある人たちが図書館に明るくない、図書館の重要性をよく認識していないという事情があることは否めない。実際に、筆者の経験に照らしても、例えば自治体の首長で図書館に造詣が深い人は数えるほどしかいないというのが実感である。

ただ、首長の認識が不十分だったとしても、もしその自治体において地方自治のシステムが適切に機能していれば、その認識の不十分さを補う力が働き、それなりの施策が打ち出される余地はある。また、首長が図書館を粗末に扱おうとするような事態が発生しても、地方自治のシステムが健全に作動することによって、それを事前に阻止することもできる。

このことからすると、このところ図書館が大切にされず、むしろぞんざいに扱われる事例からは、該当の自治体においては地方自治のシステムが円滑に作動していない事情があると推察される。それはすなわち、自治体が図書館をもっと大切にするようになるためには、地方自治のシステムを適切に作動させることが不可欠だし、地方自治のシステムが健全に作動すれば、図書館が現状よりもっと充実する可能性を秘めていることをも意味している。

実際にあった事例によって図書館のあり方と地方自治のシステムとの関係を論じてみたい。数年前、ある県の県立図書館の資料購入予算が一挙に3割削減されていたことが判明した。図書館に深い関心を持つ県民にとっては寝耳に水で、驚き、呆れ、そして怒ったものの、彼らが大幅減額の事実を知ったのは既に県予算が成立した後のことだったので、もはや後の祭りではあった。

ちょうどその頃、その県では図書館大会が開かれ、筆者はそこに出席していた。大会には、先の怒れる県民も参加していたし、県知事も来賓として出席していた。当然のことながら、その場で知事に「なぜ、蔵書購入予算を3割も削ったのか」と詰め寄る人たちもいた。知事はどうやら予算削減のことを知らなかったようで、話を聞いて驚いていた。筆者はその知事の人となりをよく知っていたので、その驚きが決して演技ではないことが見て取れた。

知事が知らなかったことをどう捉えるべきか。筆者の経験に照らせば、このことをもってして一概に知事を非難することはできないように思う。県の予算額は膨大で、歳出項目は多岐にわたる。その全てを頭の中に入れておくことは至難の業だからだ。

ただ、その一方で、もし知事が図書館のことに頗る熱心だったとしたら、少なくとも図書館予算の大幅削減の事実を知らないということはなかったはずだし、そもそも大幅削減自体が起こり得なかったようにも思う。図書館のことに熱心な知事なら、予算編成の最終局面で「図書館予算はどうなっているのか」と尋ねただろうし、仮に尋ねなかったとしても部下が図書館予算の計上方針を説明していたはずだ。知事に黙って削減したのでは、後で叱責されることが目に見えているからだ。いずれにせよ、大幅削減方針はその時点で撤回を余儀なくさせられていたに違いない。

機能不全のシーリング予算

それにしても、そもそもどうして書籍購入費を大幅削減する予算案が作られたのか。通常、この種のことは事務的にことが運ばれる。この事例でいうと、おそらく県教育委員会事務局と県財政当局との間で削減するとの合意が形成されていたはずである。

なにごとにつけ予算を切り詰めたい財政当局の考えは、個別問題についての当否は別にして、理解できないことはない。問題は教育委員会である。教育委員会は図書館を所管していて、図書館の運営に責任を持っているのだから、仮に財政当局から図書購入費削減を迫られたとしても、軽々に応じるようなことはないのではないか。一般論としてその推測は間違っていないが、教育委員会も切羽詰まれば、図書館を犠牲にすることは時としてあり得る。

予算編成に当たっていわゆるシーリング制を採用している自治体は未だに多い。そこでは、教育委員会を含めて各部局の予算要求額には、例えば「前年度以下に抑える」などと箍(たが)をはめられる。その際、例えば学校教育費でどうしても新規の事業を立ち上げなければならない事情があるとすると、教育委員会予算の中の他の費目からそれに見合う額だけ削らなければ、シーリングの枠に収まらない。

そうした事情に迫られると、学校教育費を増やすために図書館経費を削減して辻褄を合わせることは十分考えられるし、ここで取り上げた県でもおそらくそんな事情があったのだろうと思われる。この場合、教育委員会が図書館を軽視しているとは必ずしも言えないが、少なくとも図書館を他の経費の犠牲に供したことは確かだ。

ここで1つ言えることは、自治体の予算編成の仕組みが硬直化しているということである。本来なら、予算編成は柔軟でなければならない。必要なものには予算をつけ、それに必要な財源は不要な事業を削ることによって捻出する。自治体予算の全体を通じてこんなメリハリのある予算編成方針であるべきだ。

ところが、シーリング制を採用している自治体では、このメリハリを例えば教育委員会なら教育委員会の中だけでつけなければならないので、先のように学校教育費のために図書館費が犠牲になるという事態も生じるのである。これは、自治体の予算編成というとても重要な分野が著しく柔軟性を失っている、自治体の財政運営の機能が健全に作動していないことを意味している。図書館を大切に扱うためには、こんなところから改善することも必要である。

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