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【特集:動物園を考える】
心の痛みから考える動物園水族館とイルカ入手問題

2017/06/01

世界の動物園水族館を取り巻く動き

イルカ入手問題は、捕鯨に関連するという独自性はあるものの、動物飼育を巡る数々の問題からすれば氷山の一角に過ぎない。井の頭自然文化園のゾウのはな子をタイに返すべきとする批判が展開されたことは記憶に新しいが、このような批判は北米や欧州では日常茶飯事である。

鯨類については、北米、欧州ともにハンドウイルカの飼育個体群を繁殖によって維持しているが、イギリスやニュージーランドではイルカ飼育はなくなっており、カナダのバンクーバー水族館も公園管理局が鯨類飼育の禁止を検討している。カリフォルニア州はシャチの繁殖を禁止し、シーワールドはシャチのショーから撤退した。ドイツでは2つの動物園がイルカを飼育しているが、動物保護団体からの批判は強く、欧州動物園水族館協会EAZAの認証を得ることでハイクラスの動物園であると明示することが、批判に対抗して政治家との関係を保つ上で重要とのことである。

ゾウやホッキョクグマの飼育も同様で、ニューヨークのブロンクス動物園やセントラルパーク動物園、シカゴのリンカーンパーク動物園やブルックフィールド動物園といった一流動物園が撤退を決めた。カリフォルニア州は象遣いが使う手かぎを虐待のシンボルとしてゾウに見せることを禁止し、ドイツのハノーファー動物園はその手かぎで子ゾウを叩く姿を動物保護団体PETAに盗撮され、批判に晒されている。一方、スイスのチューリッヒ動物園やドイツのケルン動物園、アメリカのオレゴン動物園などは、ゾウ飼育継続のために巨費を投じて広大な飼育施設を建設した。

このような流れが強くなった背景には、メスのライオンを野生に返した実話『野生のエルザ』の影響がある。特にイギリスでは1966年に映画化され、1984年のズーチェック開始、1987年の動物園免許法制定という流れにつながった。北米の動物園水族館協会AZAが厳しい認証制度を義務付けたのは1985年であり、この流れに敏感に反応して先手を打ったことが分かる。日本でも1996年に地球生物会議ALIVEが英国のボーンフリー財団とともにズーチェックを行ったが、単発で終わっている。

このような経緯から、北米のAZAや欧州のEAZAは、各地域の動物展示施設の十分の一程度しか認められない厳しい基準を設けて加盟施設を守っている。AZAは加盟の意義として「人々の信頼」を挙げ、劣悪な動物展示施設と区別され、寄付や助成金を得やすくなるとしている。動物福祉は加盟施設を批判から守るために不可欠であり、だからこそWAZAは倫理・動物福祉規定や、世界動物園水族館動物福祉戦略を策定した。この状況で、動物福祉への配慮が不十分な施設を抱えることは自己矛盾となるのである。

このような北米や欧州の動きを、日本において感じにくい背景には、動物保護団体に対する支持の差がある。英国の動物保護団体RSPCAは、ロンドン市警より早く発足した団体であり、動物虐待を摘発し、裁判を遂行する100人超の組織を持っている。そもそも動物保護運動は自らの文化を変える社会闘争であり、米国では今でも闘犬文化の撲滅と闘犬用イヌの保護や里親探し、さらには個人飼育のトラやライオンの保護も行っている。それに比べ、日本の動物保護運動はずいぶん穏やかであると言えよう。

改めて日本の動物園水族館を考える

このように彼我の差が説明できたとして、我々はどうすべきか。飼育現場を考えれば、そこに心の痛みがあることは確かである。イルカ入手問題の報道の中で目を疑ったのは、出産は11回あったが1度も育たなかったので繁殖は難しいとした公設水族館の主張である。これが動物園のゾウであったなら、なぜ飼育方法を改善しないのかと業界内で非難されるであろう。北米や欧州で繁殖個体群が確立しており、国内でも新江ノ島水族館や鴨川シーワールドで繁殖が成功している一方で、上記の施設ではイルカの子の死を看取った飼育現場の心の痛みは、十分な飼育改善につながることなく繰り返されたのである。

水族館業界の重鎮である内田詮三は「水族館も動物園も〝悪行〟」と言い切る。人間は生きるために動物の命を奪い、肉を喰らうという宿命を負っており、人間と動物との関係はきれいごとでは割り切れないという主張であり、心の痛みを認めつつも、克服を求める姿勢と理解できる。給与を得る職員が、職務遂行のために心の痛みの克服を求められるのは水族館に限った話ではない。しかし、飼育環境と技術の向上に必要な資源投入を後回しにした水族館経営の姿勢は、少なくとも動物園関係者には自助努力の不足と映るであろう。一方、水族館側から見れば、水産資源として継続的に導入可能な魚やイルカを、ワシントン条約で規制されている外国産動物と同列に語るのは筋違いとも映るであろう。2015年のWAZA会員資格停止時の投票は、そのような思いを抱えたまま行ったのであり、少数派である鯨類飼育施設が煮え湯を飲まされたとも言える。

しかし、食肉と野生動物飼育を同列に語るのは危険な側面がある。食肉は生命維持のための行為として尊重されるとしても、展示のための野生動物飼育は筋が異なる。確かに、水族館が飼育する魚は水産資源としての側面が強い。アメリカのモントレー湾水族館が展開するシーフード・ウォッチも、水産資源管理の視点に基づく。しかし、これは心の痛みが希薄な相手だからこそ成り立つのであり、例えば、ペンギンを同じ枠組みに当てはめても共感は得られないであろう。国内の一部で食用とすることが認められているウミガメについても、水族館がこれを水産資源として扱うことは、管見の限り、稀である。イルカは、人々の心に痛みを与える程度において、魚よりもペンギンやウミガメに近く、単なる水産資源として扱うのは合理的でない。飼育個体群を健全に保つ上で一定の野生個体導入が不可欠としても、水産資源としてのイルカと、飼育個体群としてのイルカは、一定程度切り離して扱うべきであろう。

それにしても、北米や欧州の動物園水族館は、厳しい批判の中でどのように経営しているのだろうか。実は、動物福祉は動物園水族館を守るだけでなく、資金調達の上でも大きな意味を持っている。チューリッヒ動物園は50億円以上の巨費をゾウの飼育施設に投じたが、その大半は遺贈寄付であり、遺贈の約束を受けるにあたって「動物のため」に使うことを誓約している。飼育環境が満足なものでないという職員の心の痛みをあえて共有し、その改善のために寄り添ってくれる市民の存在が、動物園水族館を支えているのである。日本でも、外圧や動物保護団体の批判とは無関係に、動物園職員が自らの心の痛みを認め、動物のために懸命に取り組む姿が共感を呼んでいるケースがある。動物福祉に向けた組織的取り組みを整え、アピールすることで市民の共感を得ている動物園も出てきた。自らの心の痛みを認めて動物のために努力することで市民の支持を得て、そこから必要な経営資源を得られるのであれば、これはなかなか結構な道ではないだろうか。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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