【福澤諭吉をめぐる人々】
鏑木誠
2026/01/09
福澤との関係
慶應義塾在学時は期間が短かったこともあり、鏑木が福澤に直接教えを受けたことはなかった。鏑木の福澤に対する評価は、天賦の雅量、卓識、徳義と充実した精力および高潔な性格を備えた真に偉大な英傑豪邁、と絶賛している。さらに、日本の発展の大功績者で泰西文明の開祖、5000万同胞の恩主と仰いでも余りある、とまで表現している。やや大袈裟に聞こえるが、身近に接していない世代の学生にとっては仰ぎ見るしかない偉大な存在と映っていたのだろう。
福澤は日清戦争時(明治27年10月5日)に従軍した鏑木に手紙を出している。内容としては奮戦と抜群の功名を祈る趣旨で、黄海海戦の激戦勝利など実に愉快に堪えず、何卒破竹の勢いを示して100戦100勝、めでたく凱旋を待っている。国内の人心は一致協同し、日夜戦地を望み軍人の労を謝するのみだと伝え、佃煮と甘納豆を贈るというものだった。
この書簡は石河幹明『福沢諭吉伝』にも収録され、福澤の日清戦争に対する見方を示すものとして知られることになる。同日、鏑木と同じく日清戦争に従軍した海軍中佐木村浩吉(福澤の恩人木村芥舟の次男)に対しても、ほぼ同じ内容の書簡を送り、贈答品も同じであった。福澤が鏑木に対して恩人の子息と同等の扱いをしているところから、往時の「鐘たたき番人」が国運を担って戦うまでに成長したことへの感慨と期待を感じることができる。
当の鏑木は、戦争時は水雷艇長として威海衛夜襲で水雷攻撃を成功させ軍功を挙げた。その際に敵前で船の自由を失ったが、鏑木は艇内で携帯したウイスキーを飲んでへべれけになっていて、救護に行った一同がその豪胆さに驚いたという逸話が残っている。
鏑木の戦争観
鏑木は雑誌『中学新誌』の記事において、日清戦争の勝因は教育にあると分析している。特に、日本の国民が義勇奉公の精神で一致団結したことが重要で、それには教育者の役割が大きい。国家に軍備が必要なのは国に司法警察の必要があるのと同じである。軍備を拡張しなければ国運の発達はない。また、軍備は平和を維持するためにも必要である。戦争の予防にもなるからである。外交官がどのような人であっても、軍備がなければ一国の主義を貫き通すことはできない。したがって軍備は国の保険料にもなる。鏑木の考えでは、軍器は火ぶたを切るのが最後の職務で、たいてい力を量れば止むものなので、発砲させないのが軍艦の任務であるという。
また、武器の進歩は驚くべき速度であり、将来に備えないと戦勝国の地位を保つことはできない。教育者諸君には、平時から備えるため軍国の知識を脳底に懐くこと、また、児童に軍事的教育を授け、一致協力して国権を世界に輝かし、万国と並び立つ精神の国民に育てることを期待したい、と記している。
その後
日清戦後は軍令部第一局員として勤務し、明治30(1897)年には英国に発注した新造艦浅間の回航要員に任命された。翌年からは、イタリア公使館付武官として活躍した。明治31(1898)年の米西戦争時には、スペインへの軍事視察を命じられた。外交官栗野慎一郎によると、スペイン政府は視察への便宜協力を拒んだが、鏑木は独自に友人である英国大使館書記官バークレーや駐在武官ホワイト中佐に頼んで紹介状を書いてもらい、それをもって各地を訪問し、艦隊の視察をするなどして任務を成功させたという。日露戦争時には英国公使館付武官として外交手腕を発揮した。
このように鏑木は豪胆さはあるが、「戦士」というよりも「参謀」タイプで、もっと言えば語学巧みで気品高く外交に長けた軍人であった。米西戦争時の視察エピソードはまさに鏑木の手腕の一端を示している。
その後、鎮遠(ちんえん)艦長や呉鎮守府司令長官を務め、最後は海軍少将まで昇進した。明治41(1908)年には外客待遇機関「喜賓会」(ウェルカム・ビューロー)の幹事長に就任し、大正3(1914)年までその職にあった。同会は今でいえば「インバウンド政策推進機関」であった。なお、同会では福澤捨次郎が常任幹事を務めたこともあった。この喜賓会から発展して「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」(公益財団法人日本交通公社の前身)が設立された。
慶應では異色の国際派海軍将校鏑木誠は、大正7(1918)年8月少将で退役し、翌年4月、61歳でこの世を去った。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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