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【福澤諭吉をめぐる人々】
木村芥舟

2021/12/27

木村喜毅(芥舟)
  • 末木 孝典(すえき たかのり)

    慶應義塾高等学校主事、福澤研究センター所員

福澤諭吉は恩人に対して終生礼を尽くす人物であった。恩人としては、学問の端緒を開いてくれた長崎の山本物次郎と大阪の緒方洪庵、そして当時困難であった海外経験の道をつけてくれた軍艦奉行の木村喜毅(よしたけ)(芥舟(かいしゅう))が挙げられる。特に幕臣としての立場を同じくした木村との関係は深いものであった。

生い立ち

木村喜毅は文政13(1830)年2月5日、江戸において生まれる。父は浜御殿奉行木村喜彦、母はふね。幼名は勘助。芥舟は号であり、軍艦奉行就任時に摂津守に叙されたため木村摂津守とも呼ばれる。

長じて天保13(1842)年から浜御殿奉行見習いを務め、将軍に目をかけられる。その頃昌平黌に学び、嘉永元(1848)年、試験に及第し、翌年、長谷川弥重と結婚した。その後、西丸目付、本丸目付を経て、安政4(1857)年長崎奉行として赴任する。その際に図書と改名した。長崎では海軍伝習所監督と医学館学問所取締を務める。翌年には咸臨丸で練習航海を行った。安政6(1859)年、海軍伝習の中止を受け江戸にもどり、外国御用立合と神奈川開港御用を務めた。

そして軍艦奉行並に任命されると、11月には、咸臨丸の米国派遣の手配を命じられる。これは日米修好通商条約の締結に首都ワシントンに向かう正使を乗せた米艦ポーハタン号を護衛する役目と乗組員の航海練習が目的であった。当時は海軍創設から日が浅く、組織としての規律に欠け、位階俸給や服章など決めるべきことが山積していた。木村はそれらのことを決めてから出航することを建言したが受け入れられなかった。

福澤との出会い

その頃の福澤諭吉は、江戸の中津藩中屋敷に開いた塾で教え、蘭学から英学に転向したばかりで、幕府使節団の米国派遣を知り、米国行きの志を抱いた。江戸に来てから知遇を得た高名な侍医桂川甫周(ほしゅう)が軍艦奉行木村の義兄(姉・久邇の夫)だと知って懇願して紹介状をもらい木村を訪ねた。奉行の従者としての随行を熱心に希望する福澤に対して、4歳年上の木村はその熱意を受け入れ、快諾した。従者とは言いつつも自費での随行であった。

翌年1月に品川を出航した咸臨丸には、司令官として木村が乗ったほか、勝海舟が艦長相当の役に就いていた。しかし、勝は船酔いで部屋に入ったままで、出てきたと思うとわがままなことばかりを言って木村を困惑させた。そのため福澤は勝に対して良い印象をもてなかった。初対面から福澤と勝の相性は悪く、温厚な木村はこれ以後も公平に両者の間に立ったが、2人の溝が埋まることはなかった。

福澤は船酔いをしなかったので、他の従者が何もできない中、普段と同じように働き、木村を助けた。日本人乗組員だけでは対処できない事態も、航海経験豊富な米海軍大尉ブルックが同船していたことが功を奏して乗り越えることができた。船には木村の私財三千両と幕府からの五百両を持ち込んでいた。大嵐が襲来した翌日、その金銀を入れた袋が部屋の中に散乱してしまう出来事が起きた。福澤は仲間と一緒にそれを拾い集めたという。これが後に『福翁自伝』で為替を知らない、商売に無知な武家を嘆く逸話となった。

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